さくらぎ瀞がわかる範囲の(スリランカの)テーラワーダの教え

スダンマ長老の弟子(在家)がつぶやいてみる。(只今休止中です)

dasadhammasuttaṃの読書感想文3

 引用は、富士スガタ精舎(現富士スガタ冥想センター)の日常読誦経典から。

 

引用引用引用引用引用引用引用引用引用

 

9.
kacci nukho'haṃ, suññāgāre abhiramāmīti
カッチ ヌコーハン スンニャーガーレー アビラマーミーティ
私は人が少ない静かなところが好きかどうかと
pabbajitena abhiṇhaṃ paccavekkhitabbaṃ.
パッバジテーナ アビンハン パッチャウェッキタッバン
いつも出家者は観察すべき

 

引用ここまで引用ここまで引用ここまで

 

 「出家が逃げだ」と誤解されるのは、こういう所かも知れない。

 

 在家としては、やたらとパーティー好きだとか、宴会好きだとか、人込みが大好きだとか、そうでなければそれくらいでいいんじゃね?と思う。

 

 今はネットの環境があるので、「人が少ない静かなところ」といっても結局人がいるのと同様、なんてことになるが、本当に「人が少ない静かなところ」というのは、現代人には意外にキツい。

 

 オーストラリアにある冥想センターでスリランカ出身のお坊様がご住職をやられているのだが、そのお坊様とは連絡を取るのに非常に苦労するらしい。冥想センター自体も大きいし、固定電話はあるものの、そこに人がいることがほとんどない。手紙を出しても果たして読んでいるかもわからないし、正直なんとも困る、とお坊様がおっしゃっていた。

 

 中にはそういうお坊様もいるし、人によってはそういう時期も必要だろう。しかし、実践してみればわかってくると思うが、テーラワーダははっきり言って逃げを認めてくれない。私はやたら逃げたい質だから、よくわかる。どこにいっても、まず逃げ道を探すのが始めにすることだ。そのくらいのビビリである私が、逃げ道を塞がれてしまう。

 

 「出家が逃げだ」と言う人たちは、こういう経験をしていないのだろうし、そもそもテーラワーダの出家との接点もあまり無いだろうから、即ちテーラワーダとの馴染みがまだまだ少ない人たちなのだろう。もし信saddhāがある人なら、あとあとそんなことを言ったことを後悔することになるだろう(予言)。

 

 発言というのは、「その人」が出る。まったく縁が無いことは、そもそも発言できない。私にオイミャコンについて話せ、と言われても、あまりに縁が無さ過ぎてなにも言うことが出来ない。

 

 そういうわけで、ネットを見ていても、「あ~あ、言っちゃったー」ということは、結構多い。これは悪業だとかそういう意味ではなくて、もしその人がテーラワーダをこれから実践していくのなら、「こういう縁があってこういう目に遭うのかなあ」などと勝手に想像している。意外に楽しい(笑)。

 

 まあ、というわけで、suññāgāreだからといって、必ずしも人がいないところ、と取る必要はない。頭陀行をしている人なら話は別だが、そもそも在家では頭陀行はできない。

 

 

 それで思い出した。

 

 あまりいい例えではないが、アレルギー体質(?)が、反応するものが人によってまるで違うように、その人にとって敏感なもの、というのは人によってまるで違う。

 

 だからネットで見ていても、「そこにそこまで怒る必要ある?」と思うことは多いのだが、そもそもが人によって気になる所、というのはまるで違う。

 

 逆に言えば、そここそがその人にとっての得意分野とも言えるのだが、意見を言ったところで人には理解されないことも多く、もしかしたらこれまでの人生で苦しい思いをしたことがあるかも知れない。

 

 良い方にも、悪い方にも、そもそも興味が無ければ、反応しない。すべてがそうだとも思っては欲しくないし、あまり助けにもならないかもしれないが、もしかしたら、あなたが頭に来るその話こそが、あなたの超得意分野かも知れない。

 

 また、ちょっと言いにくいが、そこが嫉妬の対象、「あなたのなりたいもの」かも知れない。

 

 人と話していても、「ん?そこ、重要?」と思ってしまうことが私にも勿論あるが、更に話を聴くと、または事態が進展していくと、実はほんとうに重要だった、ということがある。全然重要でなかったこともある(笑)。

 

 というわけで、とにもかくにも、「反応する話題」というのは、もしかしたらその人ならではの隠された能力を示しているかも知れない、ということはちょっと頭の片隅に置いておいてもらえると、新たな発見があるかも知れない。

 

 念のため言っておくが、隠された能力は、まるで無いかも知れないw

 

 しかし、ここいらの年齢になってきても、実は自分の知らない能力、というものは、ある。残念ながら突然才能は開花しないが、精進の方向は、変えられるかも知れない。

 


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10.
atthi nu kho me uttarimanussadhammā
アッティ ヌ コー メー ウッタリマヌッサダンマー
最期の時、修行仲間から聖なる立場に
alamariyañāṇa-dassana viseso
アラマリヤニャーナダッサナ ウィセーソー
なっているかと聞かれた時に
adhigato so'haṃ pacchime kāle
アディガトー ソーハン パッチメー カーレー
私は恥ずかしくなく
sabrahmacārīhi puṭṭho na maṅku bhavissāmīti
サ(ッ)ブラフマチャーリーヒ プットー ナ マンク バウィッサーミーティ
答えることができるかと
pabbajitena abhiṇhaṃ paccavekkhitabbaṃ.
パッバジテーナ アビンハン パッチャウェッキタッバン
いつも出家者は観察すべき

 

引用ここまで引用ここまで引用ここまで

 

 「最期の時」。日本語としては、恐らく間違いとされる。馬から落馬した、とか、頭痛が痛い、とか、そんな表現とされる。

 

 が、お経というのは口から発せられることが多いので、「さいご」と言うと「最後」ととられてしまうと考えて、こういう文になった。

 

 しかしスガタ冥想センターでは、お経の部分は日本語では唱えていない。伝統的にも、テーラワーダの国々では、お経部分はパーリ語で唱えられるのが普通だ。マハーメウナワでは現代シンハラ語でも唱えるし、あそこは五戒などもお坊様と一緒に唱えたりするから、伝統的なやり方からは外れている。

 

 慈悲の冥想などを日本語でやるのは、あれはお経、三蔵の中にあるものではないからだ。

 

 個人でやるには、よくわからないパーリ語の発音でやるよりも、日本語で唱えた方がはっきり言って良いに決まっている。良いに決まってはいるが、それでも慈経などは、完全カタカナ発音でもいいから、暗記した方が良い。

 

 まあ言いたいことは、「パーリ語、つってもよくわかんないけど、いちおう二千何百年間伝えてきた聖典言語なんだし、大事にしよう、という気持ちは持ってほしいな」ということだ。どこからどこまで、とは聞かないでほしいが、神々はパーリ語が理解できることになっている。

 


 「聖なる立場になっているかと聞かれた時に私は恥ずかしくなく答えることができるかと」。在家なんだから、もし死ぬときに親しい人に囲まれるのであれば、その時に、だれかの受け売りではなく、その人ならではのかっこいいことを一言言って死ねば、それで良いのではないだろうか。なにも「死ぬまでに預流果にならなくては」などと思う必要はない、とは思うのだが、お坊様はそうは言わないかも知れない。

 


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ime kho bhikkhave dasadhammā,
イメー コー ビッカウェー ダサダンマー
比丘たちよ、この十法を
pabbajitena abhiṇhaṃ paccavekkhitabbā'ti.
パッバジテーナ アビンハン パッチャウェッキタッバーティ
出家者はいつも観察すべきです。」

 

idamavoca bhagavā attamanā te bhikkhū,
イダマウォーチャ バガワー アッタマナー テー ビックー
このように世尊が教えられると、
bhagavato bhāsitaṃ abhinandun'ti.
バガワトー バースィタン アビナンドゥンティ
比丘たちは世尊の教えに喜びました。

 

引用ここまで引用ここまで引用ここまで

 

 比丘たちは、お釈迦様が法を説かれると、いつも大概喜ぶ。確か喜ばないものも一つか、ごく少数あると聞いたことがあるような気がするし、私も見たような気がするのだが、それが以前書いた話のものかどうかは調べていないのでわからない。

 

 以前、「慈経をみんなで日本語で読誦していたら、涙が出できた」という人がいた。人によって取り方は色々あるので決してそれに対して文句を言いたいわけではないが、私の場合、怖すぎて涙が出てくる。「そんなんできるわけないじゃん…」と。

 

 テーラワーダを実践していくと、同じお経を読んだとしても、以前とは捉え方が変わっていることに気が付くことがあるだろう。単語の意味についても、知識的にはわかっていても、実践していくとその深い意味に気付かされることがある。

 

 それは楽しいことでもあるのだが、同時に怖いことでもある。その時、一歩ずつお釈迦様の真の凄さを理解する道に入っていくのだろう。

 


 最後に祝福の文言を引用して終わろうと思う。

 

 この文言は、別にこれに決まっているわけではないが、普通三つ唱える。さすがにこれが三つではないものは私は聴いたことがない。

 

 「日本だと「あなた方に」だけにしてしまうと「なぜ私に、は無いのですか!」とか言われちゃうから、こうしとくか」とスダンマ長老はおっしゃっていた。だから、スリランカではこのセットで唱えることは、まず無い。というか、あり得ない。まあしかし、どれが間違いだとかそういうことでもないのだが、以前書いた通り、なんとなくこのお経にはこれかなあ、みたいなものはある。

 

 だから、というか、お坊様が在家に祝福してお経を唱えている時には、知っているお経でも、本当は在家はお経を唱えない。でないと、誰が誰に祝福しているのかわからなくなってしまう。しかし例外中の例外で、「お前も唱えなさい」みたいなサインが出ることもまれにある。

 

 しかしまあせっかく覚えているお経だから唱えちゃうこともあるし、結構敬虔な仏教徒であるスリランカ人だって結構唱えていたりする。それについていちいち「いや、違うよ」と言うのもなんだし、しかし本当のところを言うと、「いや、違うよ」と言いたい気持ちであることは確かだ。

 

 でもこういうことを日本で言ってしまうと「それは違う!」と大上段から構えて言う人がいるのでなかなか難しいところなのだが、まあ一応作法としてはそうだよ、ということだけ覚えていただければ、と思う。

 

 それでも、「皆で唱えましょう」と言われることもあることはお忘れなく。

 

 それで思い出した。スリランカ式では、その祝福のお経を唱える時には聖糸をみんなで触れるが、あれもその上をまたいではダメだし、地面につけるのも、お釈迦様からの聖糸なのでどうか、という話なのだが、それにしては意外にお坊様も下に付けてしまっていたりする。

 

 ああいうのを見るにつけ、「これが正しい!」と身に付いて、「よし!」となった時に、お坊様は崩しにかかってきたりする。「そうじゃねーだろ?」ということだ。

 

 はっきり言ってこのくらいのこと、言えば誰でもできる。だから、そんなことができたからといって、「私は実践しています!」と思われても、困るわけだ。

 

 段階が進むと、それまでの考えとは違うことを要求される。これが理解できるまでに私も時間が掛かったが、だからこそ人に対して「こうですよ」と発言する時には、気を付ける必要がある。相手がどういう段階にいるかはわかったものではないからだ。

 

 しかしだからと言って、そういうことばかりに配慮していると、これまた私のように誰に向かって言っているのかよくわからないものになってしまう…。

 


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etena saccavajjena sotthi me hotu sabbadā.
エーテーナ サッチャワッジェーナ ソッティ メー ホートゥ サッバダー
この真実の力によって、私にすべての幸運が訪れますように。

 

etena saccavajjena sotthi te hotu sabbadā.
エーテーナ サッチャワッジェーナ ソッティ テー ホートゥ サッバダー
この真実の力によって、あなた方にすべての幸運が訪れますように。

 

etena saccavajjena ciraṃ tiṭṭhatu sasanaṃ.
エーテーナ サッチャワッジェーナ チラン ティッタトゥ サーサナン
この真実の力によって、教えが永く続きますように。

 

引用ここまで引用ここまで引用ここまで

 


 dasa-dhamma-suttaṃ終了。