さくらぎ瀞がわかる範囲の(スリランカの)テーラワーダの教え

スダンマ長老の弟子(在家)がつぶやいてみる。(只今休止中です)

アビダンマ(略)の読書感想文31

 今日もこの2冊にお世話になります。


・アビダンマッタサンガハ 南方仏教哲学教義概説
 監修 水野弘元、訳注 ウ・ウェープッラ、戸田忠
 アビダンマッタサンガハ刊行会


・アビダンマ基礎講座用テキスト
 ウ・コーサッラ西澤


 休むとか言っときながら、昨日業処の話をしてしまったので、もうむちゃくちゃ飛んで、最後の摂業処分別kammaṭṭhāna saṅgaha vibhāgaまでいってしまおうと思う。

 

 274頁。

 

引用引用引用引用引用引用引用引用引用

 

 定や智などの法を自己の心相続の中に、しばしば生じさせ、増大させることが修習であって、その修習には止と観との2種がある。

 

止修習 蓋や尋などの煩悩や麁(あら)い禅支を順次寂止させていく定が止修習であり、その自性は世間禅・唯作心と相応する一境性である。この止を修習することによって大禅が得られる。

 

観修習 三地(三界)における名・色を無常・苦・無我・不浄と見る智である。それは同じ名・色を見ながら、男・女・常・楽・我・浄とする一般的な見方を超えたものであって、その自性は大善・大唯作心と相応する慧である。この観を修習すれば道・果・涅槃が得られる。

 

業処 地遍などの所縁、及び名・色の所縁を示す言葉で、前者は止修習の所縁、後者は観修習の所縁である。

 

引用ここまで引用ここまで引用ここまで

 

 ここで言う観修習のことを、世間では「ヴィパッサナー冥想」と言っている。私の知る限り身体(の動き?)を見るiriyāpathaであり、勝義諦である無常、苦、無我を観察すること。

 

 これに対し、止修習のことを、サマタ冥想と言っている。早い話が、なにか一点に集中することだ。ここからわかる通り、「一点」に集中するのだから、当然無常、苦、無我になんか集中できない。サマタで得られた集中力や智慧を用いて無常、苦、無我を観察、体験、発見して道、果、涅槃を得る。

 

 このサマタ、例えば慈の冥想なら、小さい虫一匹に対して慈をしても、実は禅定に入ることができる。それは大変素晴らしいことなのだが、この文章を読んだだけでも「なんだか、それだけだとねぇ…」と思わないだろうか。

 

 私は冥想指導者でもないし、はっきり言ってまじめに冥想はしていない。だから知識的な方面から言っているだけだが、一応冥想指導は受けた身として、またお坊様の法話も日本人にしては相当量聴いている方だと思うので、なにかの参考になれば、と思い書いているだけであることは、ご了承いただきたい。

 

 さて「なんだか」の話だが、清浄道論には慈の説明の箇所で、とにかくものすごい数の対象を相手に禅定に入れ、みたいなことが書いてある。

 

 私は禅定にも入ったことがないのでさっぱりわからないのだが、慈の冥想だと、どこまでの範囲を禅定の対象にできるのか、さっぱりわからない。

 

 また、どこまでの範囲を禅定の対象にできるのかは、恐らく素質、つまり生まれで決まってきてしまう。努力次第で広げられる人もいるのかも知れないし、いきなり「ばっ」と広い範囲できる人もいるのかも知れない。ここら辺の進み具合なども人によってまるで違う。

 

 ということは、なにもこれは禅定に入る、なんて話でなくても同じことだとお気づきだろう。慈悲の冥想をするにしても、対象をどう選ぶかとか、たとえばビームのように身体から発するイメージの方が良いのか、稲妻のようなのか、いやそうではなくて対象の視覚的なイメージなのか、その他の感覚を用いるのか、などなにがその人に向いているのかは、わかったものではない。

 

 催眠術などに触れたことがある人ならわかると思うが、人にはそれぞれ感覚(いわゆる五感)の得意不得意(好み?)がある。


 まずここまででも、わかっていただけただろう。この範囲に限定しただけでも、冥想指導や、説法の持って行き方などは相手によって違ってくる、という意味が。現代的な知識から見ても、これだけの要素は少なくともある上に、テーラワーダ的には前世が関わってくる。これを完璧に見ることができるのは正自覚者であるお釈迦様だけだ、とされる。

 

 私としては、自分のことくらい見れたらなあ、と思うのだが、残念ながら自分のこともすべて見られるのは、無碍解を持つ大阿羅漢の方々からだ。自分のことを見たいのは、まあ結局は阿羅漢になりたい(成長したい)からで、なんか大阿羅漢になってから自分のことをすべて見たところで意味ないんですけど、と言いたいのだがしょうがない。テーラワーダの教義ではそういうことになっている。


 さて、引用文の中では「定や智などの法を自己の心相続の中に」という言い方がされている。これが厳密な言い方だ。正直な所、細かい私でも頭が痛くなる(笑)が、アビダンマとはそういうものだ。言葉の使い方には気を付けよう。

 

 「しばしば生じさせ、増大させることが修習」とある。上に「一点に集中」なんて書いたが、まあそれは「サマタ」と特別な単語でくくる止修習という、いかにも「冥想してます」という時間を作ることこそが修習と言いたいわけではなくて、結局これから出てくる業処について考えていれば修習ですよ、ということだ。ここでは止修習と観修習の2つとしているが、意味を広く取れば、業処について考えていれば止修習、と言えなくもない。いや、これはさすがにまずいかもしれないが…。

 

 まあとにかく、修習、実践、bhāvanāとは冥想のこと「だけ」ではないですよ、ということが言いたいわけですよ、私としては。


引用引用引用引用引用引用引用引用引用

 

性とは、その人のもって生まれた気質(pakati)であり、他の諸法より或る1法が特に生じる傾向があることを言う。(略)しかし、実際の場合には以上の他に、これらの中2乃至3が複合している人もあり、性質の不明の人もあるから、この6種はあくまでも標準的なものにすぎない。

 

引用ここまで引用ここまで引用ここまで

 

 ということで、分かりやすい人もいれば、分かりにくい人もいるんだそうだ。