さくらぎ瀞がわかる範囲の(スリランカの)テーラワーダの教え

スダンマ長老の弟子(在家)がつぶやいてみる。(只今休止中です)

慈しみの冥想1

 慈悲の冥想の文言は、色々ある。

 

 仏教協会のフルバージョンなどは、ちょっとゆっくりやったらすぐに一時間は経ってしまうだろう。

 

 ああいうのは、ほんとうに助かる。「幸せでありますように」だけでも十分良いのだが、それを一時間やろう、というとやはりちょっとそれなりの気合が要る。

 

 それよりも、「気が付いたら一時間だ」の方が、余計な「やらなきゃ」みたいな怒りも出ないし、「一時間やったぞ」という善の満足感が簡単に得られる。

 


 富士スガタ冥想センターにも、慈しみの冥想の文言がある。

 

 これはパーリ語ではあるが、後で話すがスリランカで作られたもので、少なくともアマラプラ派界隈ではお坊様も暗記されているものだ。

 

 我々は、パーリ語でやってもかまわないわけだが、日本語でやった方がやはり意味がわかりやすくて良いだろう。

 

 そして、珍しく、この日本語の文章は私がほとんど関わっていない。スダンマ長老と誰かがやったものなのだが、誰がやったかも私は知らない。後にちょっと単語が入れ替わったりした関係上私も関わっているが、その為詳しいことが分かっているわけでもない。

 

 まあしかし経典とは少し意味合いが違うし、あまりテーラワーダのことを知らなくても、というか慈悲の冥想自体テーラワーダとは何の関連も無くても是非とも誰にでも勧めたいものではあるので、特に言葉としても問題になることも無いだろう。

 

 しかしこの慈しみの冥想、日本に流布されている慈悲の冥想の文言とは、ただ一点に於いて決定的に違う。終わりに、神々に対して慈悲の冥想をする。

 

 四天王は日本にもいるので、別にそのイメージで全然問題ないわけだし、慈悲の冥想はどんな生命(有情施設)に対してもやるものなのだから特にどんな神々でも構わないわけだが、テーラワーダ的にはまずは「正見の神々が」と思っていた方が良いのかなあ、とは思う。

 


 引用は、富士スガタ精舎(現富士スガタ冥想センター)の日常読誦経典より。

 

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ahaṃ avero homi,
アハン アウェーロー ホーミ
私は恨みのない人になりますように、
abyāpajjo homi,
アッビャーパッジョー ホーミ
私は怒りのない人になりますように、
anīgho homi,
アニーゴー ホーミ
私は悩みのない人になりますように、
sukhī attānaṃ pariharāmi.
スキー アッターナン パリハラーミ
私は安楽に過ごせますように。

 

引用ここまで引用ここまで引用ここまで

 

 まずは、「私」に対してから、慈しみの冥想は始まる。

 

 「安楽に過ごせますように」。確か経典にも、「敵が安らかに眠ることを望まない」みたいなことが書いてあったと思う。私が生来ノーテンキだからだろうが、これがよくわからない。拷問じゃあるまいし。

 

 まあとにかく自分に対して敵のように振舞うのはやめましょう、ということだ。人によって違うかも知れないが、これが意外に難しい。

 


引用引用引用引用引用引用引用引用引用

 

ahaṃ viya mayhaṃ ācariyupajjhāyo,
アハン ウィヤ マイハン アーチャリユパッジャーヨー
私とともに私の先生、師匠たち
mātā-pitaro, hita-sattā, majjattika-sattā, verī-sattā,
マーターピタロー ヒタサッター マッジャッティカサッター ウェーリーサッター
母、父、親しい生命、(好きでも嫌いでもない)中庸の生命、嫌いな生命は、
averā hontu,
アウェーラー ホントゥ
恨みのない生命になりますように、
abyāpajjā hontu,
アッビャーパッジャー ホントゥ
怒りのない生命になりますように、
anīghā hontu,
アニーガー ホントゥ
悩みのない生命になりますように、
sukhī attānaṃ pariharantu, dukkhā pamuñcantu,
スキー アッターナン パリハラントゥ ドゥッカー パムンチャントゥ
安楽に過ごせますように、苦しみが無くなりますように、
yathā laddha-sampattito mā vigacchantu kammassakā.
ヤター ラッダサンパッティトー マー ウィガッチャントゥ カンマッサカー
業によって得た富が無くならないように。

 

引用ここまで引用ここまで引用ここまで

 

 「(好きでも嫌いでもない)中庸の生命」。大概の生きとし生けるものはここに入ってしまう。特に分類がどう、とかではなく、まあとにかくいろんな生命に対して慈しみの冥想がしたい、というわけだ。

 

 「verī-sattā」。もともとこのパーリ語の文章には、無いかも知れない。

 

 「業によって得た富が無くならないように」。ここからも、すべての結果が業によるものではない、ということがわかる。例えば津波などがそれにあたる。

 

 あまりに業が良い人は、もしかしたら、津波で家が無くなってしまった、しかしなぜかその後その家よりも良い家が手に入ってしまった、ということもあるかも知れない。

 

 テーラワーダでは、人間に生まれた、ということは大変珍しい、大変素晴らしいことだと言う。まずは修行する環境の条件を手に入れているのだから。

 

 だから、年齢が若い頃は「前世行った徳」によって、それなりに悪いことをしてもあまり悪い結果を得ることがないので、善い行為をしよう、とはあまり思わない、思えないかも知れない。しかし年齢を経てくると、善業の貯金が無くなってくるため、なにをやってもうまくいかなくなってしまうことがある。こうなってからでは、なかなか「では今から善行為をしよう!」と思うことは、難しいかも知れない。

 

 本来、生命は善行為をしたくないものだ。テーラワーダは、それをなんとか善行為をして行こう、という方向に向けてくれる大変ありがたい教えなだけに、馴染みがないとなかなか受け入れることは難しいかも知れない。

 

 私などは、「どうして?なぜ?なんでなの?」なんてとことん考えざるを得ない性格をしているから、そういう人は知識的に考えていくのが向いている、というかそれしか方法が無い、というか。

 

 なので、やけにテーラワーダ的な知識やアビダンマは「やってもしょうがない」みたいに言われることには、私は不満を覚える。まあ知識をたてにマウンティングするバカはどこにでもいる。しかもそういうやつの知識は知ったかぶりであって、中途半端だろう。逆に正しい知識でやり返せよ、くらい思うのだが、まあそういうやつは正しい知識に対して「それは違う」とか言い出して話にならんだろうから、縁を切るに限る。

 

 相当前の話、チャットの全盛時代に、英語が得意な人(日本人)がいた。まあ私は英語がそこまでわかるわけではないので飽くまで「自称」だったかも知れないが、ネイティブが何人「それは違う」といっても、頑として「自分の知っている英語の方が正しい」といって譲らなかった。当時は「縁を切る」という考えが私にもなかったから、たいそう頭にきたものだ。

 

 「私は知っている」という人には、なにも教えられない。もう何度も書いているように謙虚すぎるのは問題だが、尊大なのが問題なのはまあ言うまでもないだろう。

 

 しかし問題なのは、実は自分は知ろうとする努力をしていないのにかっこつけて「知識なんて、アビダンマなんてどうでもいいよ」とか言っている奴だ。「私にはわかりませんでした」「私は興味が持てませんでした」なら良い。私はどうも冥想が苦手なように、向き不向きがある。しかし実は興味があるのに「すっぱい葡萄さ」とか言ってるのは、正直ムカつく。

 

 「アビダンマなんてどうでもいい」と、お坊様だって言うことがある。誰かが知識的にマウンティングしようとしていたとか、そこにいた人はアビダンマをやるべきではない人、または段階かも知れない。


 ふわっとした話だが、なにごとも問題を起こすのは、その分野が得意な人たちだ。ある分野が得意でもない人は、そもそもその分野において問題を起こせない。だからちょっと詳しい人たちは、結構簡単に問題を起こす人に騙されてしまう。ひじょーにそれっぽいことを言うからだ。

 

 そういう人に騙されないためには、きちんと正しい知識を仕入れていくのが一番だ。そうでなければ、勘をひたすら鍛える、という手もあるが、これこそ得意不得意があって、相性が悪い(良い)と、よりころっと騙されてしまうことがある。

 

 よりふわっとした話だが、大概二番手がこういう問題を起こす。

 


 う~ん、あまりに花粉症が酷くて、何を書いているのか自分でわからない…