さくらぎ瀞がわかる範囲の(スリランカの)テーラワーダの教え

スダンマ長老の弟子(在家)がつぶやいてみる。(只今休止中です)

dasadhammasuttaṃの読書感想文1

 dasa-dhamma-suttaṃ。

 

 富士スガタ精舎の日常読誦経典では、「いつも観察すべき十法」となっている。

 

 スリランカの終夜読経で唱えられるcatu-bhāṇāvāra、四つの法門の護経、24経のうち、一番初めのものだ。

 

 といっても、結局この前に吉祥経、宝経、慈経等が参加されるお坊様全員(とは限らない場合もあるが、まあここではそういうことに)で唱えられたりするので慣れないとちょっとわかりづらいかも知れないが、メインとなるcatubhāṇavāraのセットでは、一番目に来るお経だ。

 

 そしてこのお経と、次の、二番目に来る吉祥経、最初の散文の部分が途中までまったく一緒だ。だから、宿泊冥想会などで朝晩の読経をお坊様とする時、どちらのお経なのかを「tatra kho」か「atha kho」かで判断しなくてはならない(ミニ知識)。

 

 因みにこういう朝晩の読経、お坊様ごとに、というか、恐らく師匠や系統、国等ごとに、意外に違いがある。いわゆる、三蔵ではないものも結構唱えられる。伝統的にその国で唱えられているものであれば他のお坊様も暗記しているが、そうでないものだと、まったく唱えられないことも多い。

 

 順番や、先に回向してしまうとか、そんなこともほんとうに色々だ。というわけで、とくに「こうでなければならない」という決まりがあるわけではないが、なんとなく「こんな感じ?」とか、「これは無いかな?」みたいな範囲はある。最悪、その時の状況によって変わることもある。

 

 というわけで、「これだけが正解です」とは言い難いわけだが、だからといってなんの根拠もなく適当にやっているのか、というとまたそれも違う。

 

 日本でテーラワーダが浸透する上で一番の障害となるのはここかなあ、とは最近思っている。いや、読経の話ではない。日本ではどうしてもマニュアルが重視されるというか、それはそれで勿論良い部分もあるわけだが、そればかりでは、真実を見失ってしまうこともある。

 

 例えば、「「正しい」とは何か」となった時、「これが正しいです。これは正しくないです」と決まってしまったら、今度はそれに則って悪い気持でも「正しい」とされる行動ができてしまう。それを判断するには、結局は智慧が必要で、そのためには仏道の実践が要り、その仏道の実践を導いてくれる人を探すためには、これまた結局徳を高くするしか方法がないのだから、そのためには智慧が必要で、そのためには仏道の実践が要り、(ループ)。

 

 だから、同じような所をぐるぐるしている気がしていても、それでも少しずつ、前に進んでいくしか方法は無いのだろう、と思う。そのうちに間違いを犯してしまうかも知れない。それでも良いではないか。間違いは悪業になるが、それを後悔することは悪業を積み重ねることに他ならない。自分がした悪いことはさっぱり忘れれば良いのです。

 

 間違いを犯さないためには、最初の時点での心に気を付けること。ここが悪い方向に行っていると、結果は良いことにはならない。途中で気付いたら、すぐにやめること。取り返そうとすると、もうどつぼにはまる。はっきり言う。取り返すことは、できない。アリ地獄?または泥沼のように、もがけばもがくほど、どつぼにはまる。

 


 さて、引用は富士スガタ精舎(現富士スガタ冥想センター)の日常読誦経典から。

 

引用引用引用引用引用引用引用引用引用

 

evaṃ me sutaṃ:
エーワン メー スタン
ekaṃ samayaṃ bhagavā savatthiyaṃ viharati,
エーカン サマヤン バガワー サーワッティヤン ウィハラティ
jetavane anāthapiṇḍikassa ārāme.
ジェータワネー アナータピンディカッサ アーラーメー
tatra kho bhagavā bhikkhū āmantesi, bhikkhavo'ti.
タットゥラ コー バガワー ビックー アーマンテースィ ビッカウォーティ
bhadante'ti te bhikkhū bhagavato paccassosuṃ.
バダンテーティ テー ビックー バガワトー パッチャッソースン
bhagavā etada'vaca. dasa ime bhikkhave dhammā,
バガワー エータダウォーチャ ダサ イメー ビッカウェー ダンマー
pabbajitena abhiṇhaṃ paccavekkhitabbā.
パッバジテーナ アビンハン パッチャウェッキタッバー
katame dasa.
カタメー ダサ

 

私はこのように聞きました。
その時世尊は舎衛城(サーワッティ)の近くの
祇園というアナータピンディカ長者の精舎にいらっしゃいました。
世尊が「比丘たちよ」と比丘たちに呼びかけると、
比丘たちは「世尊よ」と世尊に答えました。
世尊はこのように教えられました。
「比丘たちよ、この十法は出家者が
いつも観察すべきものです。
その十法とは何でしょうか。

 

引用ここまで引用ここまで引用ここまで

 

 お釈迦様が「比丘たちよ」と呼びかける場合は、イコールどれも難しいお経だ、ということだ。在家に語ったものではない。

 

 だから在家の我々が参考にするには大いに役に立つが、果たして本当の意味まで理解しているのか、というと疑問を抱かざるを得ない。誤解してしまうおそれも大いにある。

 

 そういうわけで、私も飽くまで「読書感想文」ということで、「これがお釈迦様がおっしゃった真意だ」とはこれっぽっちも言うつもりはない。言うつもりはないが、もし皆さんの参考になれば嬉しいなあ、と思ってはいる。

 


 私は以前から、お経のパーリ語の原文に「比丘たちよ」とやたら入ってくることが気になっていた。調子を整えるためなのか、それともなにか深い意味があるのか、よくわからなかった。

 

 しかし先日スガタ冥想センターから帰ってくる時にラジオを聴いていると、「ちゃかちゃかちゃか・カーン」という曲をやっていた。私はそっち方面にまったく詳しくないのでよく知らないのだが、不謹慎ながら「あれ、もしかしてこれか?」などと思ってしまった。自分の名前を連呼しているわけだが、特に意味があるわけではない。意味があるわけではないのだが、曲としては至極真っ当な必然すら感じる。

 

 いや、しかし。

 

 その後考え直した。「もしかしたら、最初から、ごく一部だけを抜いて説法したりするのだから、その時に「比丘たちよ」と入れておくことによって、「これはお釈迦様が比丘たちに向けて話した、つまり難しい話なのですよ」とわかるように入れてあるのか」と。

 

 いやいや、しかし。

 

 そうとなると、そういうお経全部にわざわざ「比丘たちよ」と入っているわけでもない。

 

 う~ん、わからない。偈のルールもわからないが、散文のルールなど、もっとわからない。

 

 というわけで、私としてはそういう可能性をちょっと思いついただけだ。

 


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1.
vevaṇṇiyamhi ajjhūpagato'ti
ウェーワンニヤンヒ アッジューパガトーティ
(在家の時とは)違う人になったと
pabbajitena abhiṇhaṃ paccavekkhitabbaṃ.
パッバジテーナ アビンハン パッチャウェッキタッバン
いつも出家者は観察すべき

 

引用ここまで引用ここまで引用ここまで

 

 出家なのだから、在家のままではないのですよ、覚悟は良いですか、という話だ。

 

 在家にとっては意味が変わってくる。

 

 仏道を実践していると、世の中の考えとはかなり違ってくる。「そんなのは当たり前なのだから、まあそれなりに距離をとりながら、また対話をする時にはそのことを頭に入れて話しましょう」ということだ。

 

 もうひとつ、テーラワーダを実践している人たちは、世の中の流れとは逆に行く人、と言われる。つまり、流れに逆らう人なのだ。滝登りみたいなものだ。そもそも激烈に難しい。いや、まあそこは置いといて。

 

 世の中の人はこれこれこういうふうに考えるに決まっているのだから、それは世間法として当然のことなのだから、まあ我々はそういうのとは違うのだ、と考えること。

 

 だから、「そういう人たちとは違う」ということだ。これは慢ではない方が当然良いわけだが、最初の時点では別に慢でもいいような気がする。「お前らとは違うんだよ」と。そして実践が進んだとき、慈悲の心も育った時に、「いや、いろんな考えはあるけど、やっぱり平等だよね」と思えば、それでいい気もする。

 


引用引用引用引用引用引用引用引用引用

 

2.
parapaṭibaddhā me jīvikā'ti
パラパティバッダー メー ジーウィカーティ
私の人生は他の人に支えられて、他の人のためにあると
pabbajitena abhiṇhaṃ paccavekkhitabbaṃ.
パッバジテーナ アビンハン パッチャウェッキタッバン
いつも出家者は観察すべき

 

引用ここまで引用ここまで引用ここまで

 

 ここは、参考にする程度なら良いが、在家とは決定的に違う。

 

 出家は、在家のお布施によって生活を成り立たせる。だから、このブログでもしつこく言っている「私のために(慈悲の冥想)も重要」という度合いが、在家者とは決定的に違う。在家が出家を見習うのは良いが、それすらも行き過ぎると問題が起こる。在家は出家のように厳しい環境にあるわけでは全くない。なにかあればすぐに注意してくれる師匠が近くにいるわけでもない。まずは、自分のことを考えることが重要だ。

 

 もしかしたら出家にお布施のことについて言われたことのある人もいるかも知れない。まともな出家なら、こういうことが分かった上でそういうことを言っていることをお忘れなく。在家に対する発言自体が、どれも在家の我々からは想像もできないほどの責任から発せられているものだ、というのはまあまだなかなかわかる環境ではないわなあ。

 


引用引用引用引用引用引用引用引用引用

 

3.
añño me ākappo karaṇīyo'ti
アンニョー メー アーカッポー カラニーヨーティ
私の考え方は(他の人とは)別であると
pabbajitena abhiṇhaṃ paccavekkhitabbaṃ
パッバジテーナ アビンハン パッチャウェッキタッバン
いつも出家者は観察すべき

 

引用ここまで引用ここまで引用ここまで

 

 1.で言ったこととも重なるが、ここでは人によって考えは違うんだよ、ということだ。

 

 これが日本ではほんとうに理解が難しいかも知れない。いや、世界だって一緒か。

 

 何度も言うように、生まれの業によって、その人の得意不得意他、なにもかも違う。そんなことをもう何十年もやってきたのだから、そもそもの思考回路だってほんとうにまったく違う。しかし特に今までの日本では、それをできるだけ統一してこようとした。その結果、いいこともたくさんあったことは間違いない。しかし、そろそろ限界に来ているのではないか、と思う。

 

 つまり、これからは「もっとめんどくさい時代」ということだ(笑)。なにごともきめ細かく、個人個人に対応していかなくてはならない。しかしなによりもまずは、「自分に対応する」というのが大事だ。

 

 このめんどくささを受け入れるためには、慈悲の心が不可欠だ。でないと、時代の流れから取り残されることになってしまう。だからまずは、自分に対応できるように、「私は幸せでありますように」。まったく無責任に言うが、何十年も生きてきた自分は、もしかしたら偽っていた自分かも知れないのだ。

 

 また、以前も書いたように、相手によっては、時期によっては、正反対のことを言わなければならないこともある。遍く誰にでも当てはまる公式など残念ながら存在しない。あまりに公式を求めようとすることは、イコール怠けを意味する。

 

 しかしでは考えまくればいいか、というと、それもまたそうではない。最初に書いたように、結局慈悲の心が最初に無いと、良い結果にはならない。最初に慢や見栄、慳や嫉妬、取り返そうとする気持ちがあると(強くあると、かな。どうせ偉そうに言う私だって気付いてないし)結果は良くならない。

 

 まあそれでも、色々な要素によっていい結果が出ないことも実際は多い。だから、これは正しい道だ、と「信じる」ことが重要になってくるのだが、まあ今はここまで言わなくてもいいか。

 

 そういうわけで、そこに至る道に導くには、人の考え、性格によって、また導く側の得意不得意によってもどういうことが正解か、と情報、固定した施設にしてしまうと問題が起こる、ということがわかっていただけたらこれ以上ない幸せです。