さくらぎ瀞がわかる範囲の(スリランカの)テーラワーダの教え

スダンマ長老の弟子(在家)がつぶやいてみる。(只今休止中です)

世の中に色々あるヴィパッサナー冥想について

 いきなり「冥想を初めて何年ですか」と聞かれることがある。私は「冥想はちょっと…」と答えることにしている。大概こういう場合、「私は何十年冥想しています」とマウンティングされるからだ。

 別に、興味があって誰かに冥想を何年やっているか訊くのが悪い、ということではない。私は上だ、下だ、という人と自分を比較、計ることは慢mānaなので、この場合私が何年、と答えようが良いことにはならない、と私が思い込んでいるのでこういう反応を選んでいる。

 何年も前、スマナサーラ長老が名古屋でおっしゃっていた。「冥想は一人で隠れてこそこそやるんです」と。当時私はこの意味が分からなかった。なんでわざわざ隠れてやるんだろう。わざわざ人に見せる必要もないが、わざわざ隠れる必要もないだろうと思っていたからだ。

 しかし今ならわかる。「私は冥想をやっています」という見栄になると、まったく意味がなくなるからだ。逆に見栄の冥想になってしまう。

 これも、だからといって人前で冥想をするな、ということではない。いずれにしても自分の心を見て見栄が出ているなあと思ったら「見栄が出ている」と観察すれば良いだけのことだ。

 というわけで、今回は冥想、世の中にいくつもあるヴィパッサナー冥想についての話だ。

ヴィパッサナー冥想とは

 ヴィパッサナー冥想とは、端的にいうと三法印、無常、苦、無我を観る冥想だ。これが施設(せせつ)を用いるサマタ冥想とは違う。こちらの最後にサマタ冥想について説明している。

sakuragi-theravada.hatenablog.jp

 世にはいくつものヴィパッサナー冥想といわれるものがあって、「どれが正しいのだろう」と迷うことがあると思う。結論から言うと、まともな指導者が言うヴィパッサナー冥想であれば、どれも正解だ。それを説明しよう。

 ヴィパッサナー冥想の根拠とされているのは、mahāsatipaṭṭhāna sutta大念住経、大念処経だ。

https://tipitaka.org/romn/cscd/s0102m.mul8.xml

 ここで身、受、心、法を観察する、とある。これがヴィパッサナー冥想だ。

 この身の観察、kāyānupassanāに、アナパナ(ānāpānapabbaṃ)も姿勢、動作の観察(iriyāpathapabbaṃ)も意識をもっての観察(sampajānapabbaṃ)も入っている。

 結論を言おう。「ふくらみ、ちぢみ」や食事の観察、手動冥想もアナパナも、正解だ。自分に合うものを選んで、やれば良い。ただ、前回に書いたように、

sakuragi-theravada.hatenablog.jp自分で師匠を選んだら、その師匠に誠実に向き合うことが必要だ。医者の言うことに逆らっていたら病気も治りようがないのと同じだ。

ヴィパッサナーとサマタ

 ここでもう一つ大事なことがある。確か、ウィジタナンダ長老という、お坊様学校の先生をされているお坊様の法話会で聞いた話だ。パーリ語で用語を教えてもらったが忘れてしまったので(なにしろお坊様は一回しか言ってくれない(涙))日本語での説明になるが、冥想のやり方には三つある。

 

1.ヴィパッサナーを先にやって後にサマタをやる。マハーシ系がこのやり方だ。
2.サマタをやって後にヴィパッサナーをやる。パオ系がこのやり方だ。
3.ヴィパッサナーもサマタも同時にやる。富士スガタ冥想センターはこのやり方だ。

 

 スダンマ長老に一度お聞きしたことがある。「冥想をしていて禅定に入っちゃったらどうするんですか?」と。すると長老は軽~く「禅定に入っちゃってください」とおっしゃる。これはそれまで「サマタには入るな」的な指導をされていた私には衝撃的なお言葉だった。本当にお坊様によってやり方は色々だ。

 そしてもう一つ、これはこの1.2.3.どれにも当てはまることだと思うのだが、スダンマ長老はこうもおっしゃった。「私の冥想の師匠が言った。身の観察以外によって悟りを開くとは誓願しないでください」と。これは身・受・心・法の観察のうち、受、心、法の三つのどれかを観察することによって私は悟るんだ、と決意するな、ということだ。

 もちろんヴィパッサナー冥想をしているときにこの四つのうちどれかを観察するのは全く問題ないし、推奨すらされるが、基本「身」を観ることを中心にして冥想をしなさい、ということだ。言われてみれば世の中にあるヴィパッサナー冥想はどれも「身」を基本にしていることがわかると思う。

 ではなぜ他の三つを観察して悟ると決意するな、と言われるのだろうか。単純に、厄介だからだ。テーラワーダの知識がないと簡単に別の方向に行ってしまうし、「法」の観察ともなれば、施設の問題もあっていとも簡単にあらぬ方向へと進むことになってしまう。

 残念ながら意欲、いうなればエネルギーがある人ほどたやすく道を踏み外しやすい。そういう理由で、師匠たちは色々な方便を使ってそちらの方向に行かないように導いていく。言い方は悪いが、羊を追う犬達のように、周りを囲いながら最終目的地へと達せさせる。

 だからその羊の追い方が色々違う、と言ったところで意味がないことはお判りいただけると思う。とにかく「(冥想は)この師匠だ!」と一度決めたら、とことんついていくことが肝要だ。もちろんどうしても合わなかったら途中で変えるのは構わない。

 冥想の指導の仕方も様々だ。例えば「お前は一生mettāのみをやりなさい」と言われたとする。「おお、そうか」と一生懸命やっていたら、次は「ではmuditāをやりなさい」と言われたら、「あれ、前言ったことと違うじゃないか」となるのが当然だ。しかし人によっては、ここで「一生これをやれ」と言われなかったら、そこまで集中して冥想することはできなかったかも知れない。

 そういうわけで、冥想の指導には熟練の技と、やはり経験が必要だ。そういう師匠に出会ったら是非尊敬の気持ちを持ち、修行に励んでいただけたらなにより私が嬉しい。よろしくお願いします。随喜します。