「行って来ます」
富士スガタ冥想センターから帰るとき、スリランカ人は「行って来ます」と言う。
日本人である私は、もちろん違和感があった。最初は「外人だから日本語が間違ってるんだろう」と思っていた。
しかし、けっこう日本語がべらべらにしゃべれる人でも、そう言う。
これは、あれだ。そういう日本語に堪能な人が特定の単語だけ間違って覚えていて、その人が後から来るスリランカ人にそう伝えているからそうなってるんだ。うん、そうだ。
しかし、お坊様もそう言う。いや、お坊様なら寺にいずれ帰ってくるんだから間違いはないか。いや、それにしても違和感がぬぐえない。
もしかしたら、スリランカ人にとって寺は家のようなものだから、どうせ帰ってくるに決まっている、だから「行って来ます」なのか。
思い切って訊いてみた。「なぜ行って来ます、と言うのですか?日本語的にどうかと思うんですが。」
答えはこうだ。「シンハラ語で、帰る、とか行く、とか言うと、もう二度と会わないような、そんな気がしてしまう。だから「行って来ます」なんです。」
なるほど、いくら外国語といえども、寺から「行って」しまうのは、語感的に耐えられないのだろう。
富士スガタ冥想センターは、当然テーラワーダのお寺だが、シンハラ語コミュニティーでもある。仏教徒は勿論、キリスト教の人もヒンドゥー教の人も、イスラム教の人も来る。
スリランカは仏教文化なので、お坊様に対して礼儀をわきまえている。イスラム教の人はお坊様に礼拝しないが、しかし握手して笑顔で帰る。
上座仏教という通り、在家はお坊様より上には座らない。病気で椅子などに座るときは必ずお坊様に断ってから座る。さすがに法要時にお坊様より上に座っている人は見たことがない。リラックスしている時は外国ということもあってそんなに厳密ではないかも知れないが、本国ではあり得ない話だと聞く。
寺によく来る人で、あまりに礼儀がしっかりしているのでてっきり仏教徒だと思っていた人が(というか逆にキリスト教徒の人の方がしっかりしているような気がする(笑))、ちょうどスダンマ長老とダンマパダについての話をしていた時に来たのでダンマパダの話をしてみたら、どうも調子がおかしい。しかしその人がお坊様に礼拝して帰ってから、聞いて驚いた。なんとその人はキリスト教徒(カトリック)だという。以前私はその人に仏教の質問をしたことがあったが、見事に返ってきた。まあしかしいくらなんでもダンマパダまでは難しかったのかもしれない。
以前、スリランカ人は皆「スダンマ長老は厳しい」と言う、と書いた。
sakuragi-theravada.hatenablog.jp
しかし、よく来る。
いや、正直に言うと、実は富士スガタ精舎だった一時期、あまりスリランカ人も来なくなった時期があった。長老があまりにまっとうなことを言うからだ。
しかし、別にスダンマ長老は気にしない。「私は別に怒って言っているわけではありません。教えをわかってくれる人が一人でもいるなら、私は話した甲斐があります。」といつもおっしゃる。
そして冥想センターを作る、ということでお布施を募った時も、カギとなった発言をしたのはキリスト教徒の人だそうだ。
冥想センターができてからも、ちょっといろいろあったようだ。土地が広すぎるとか、建物が豪華すぎる、とか。なので開設法要の時、サンブッダローカ寺のダンマーローカ長老が、はっきりおっしゃった。「これはスダンマ長老個人の建物なのではありません。お釈迦様にお布施された、過去、現在、未来の比丘サンガにお布施された精舎なのです。」
以前は「ちょっと」と言っていた人が、今回のカティナの法要には笑顔で来ていた。
寺、精舎、冥想センターというのは、大変特別なものだ。素人がやろう、と思ってできるものでは決してない。律のしばりも多い。
しかしそういったものを乗り越え(?)て、富士スガタ冥想センターは開設することができた。いや、まだ全額払えていないのだからすぐに閉じてしまうかもしれない(笑)が、当面運営することができている。
そういう、特別なところなのだから、寺から、「行って来ます」でいいのだ。
どうせみんな、帰ってくる。