さくらぎ瀞がわかる範囲の(スリランカの)テーラワーダの教え

スダンマ長老の弟子(在家)がつぶやいてみる。(只今休止中です)

信saddhāについて3

 本当はこの話は書きたくなかった。ただ敵を増やすだけだからだ。

 

 しかしアクセスを見るにつけ一定の支持は受けている気がするので(ただアンチなだけかも知れないが(笑))、ネタも無いことだし、思いついてしまったので書いてしまおうと思う。

 

 何度も言うように、私は議論したいわけではない。批判したいわけでもない。あなたは間違っています、と指摘したいわけでもない。カジュアルに仏教を楽しむことを否定したいわけでもない。先に言っておくが、この動画を批判したいわけでもない。

 

 しかし、

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日本のテーラワーダがこういう方向に行ってしまうことだけは大変困るので、一言言っておきたいだけである。


 無論、日本テーラワーダ協会を批判したいわけでもない。どうかそれだけは、ご理解いただきたい。

 

 日本テーラワーダ協会のおかけで、私はスマナサーラ長老に出会うことができたし、テーラワーダという世界を知ることができた。私の師匠であるスダンマ長老も協会の関係で日本と縁ができたのだし、日本でスリランカ人たちがお寺を作りたい、と言った時にスダンマ長老のビザの関係を工面してくれたのはスマナサーラ長老だ。

 協会のやり方は、日本にテーラワーダという世界を普及するにあたって、大変合っている。これからも大いに発展していただきたいと思っている。思ってはいるが、あの運営の仕方がテーラワーダのやり方だ、と思われると大変困る。

 実はスダンマ長老も、寺の運営を「協会のやり方で」と日本人に言われることに辟易している。

 

 スダンマ長老は戒律、律の専門家で、言わば大変保守的なお坊様だ。そもそものスマナサーラ長老のやり方とは対極にあると言っていい。

 寺の運営にはダーヤカ会議はあるが、会議のトップは住職であるお坊様だ。いつだったか、以前ゴータミー精舎での会議で、ワンギーサ長老が皆の前で「ダーヤカがお坊さんの言うことを聞かない」と言っていてびっくりした。勿論在家が意見することは良いことだ。しかし、お坊様にそうまで言わせる、ということは、相当なことだ。しかも、皆の前で言っているにもかかわらず、在家にまるで動揺が無かった。当たり前のことだと思っているのか。

 スダンマ長老が協会に対して、「会社みたい」と言ったことがある。富士スガタ冥想センターにも在家のスリランカ人や日本人がいたりするが、別に誰も給料をもらっているわけではない。

 施本も出版して儲ける、という形はとっていない。ここはお坊様にもよるようだ。スダンマ長老は飽くまでお布施のみで、というお考えのようだが、私個人としては、これは今の日本ではかなり厳しいのではないか、と思っている。現状法話をしても法施があるわけではない。以前スガタ精舎にウパラタナ長老がいらしていた。昔からのスダンマ長老のお仲間ではないが大変気に入っていて、ウパラタナ長老本人も日本にいたい、と聞いたことがある。しかし、スリランカに帰られてしまった。お父様が亡くなってお母様の世話をするのに、日本からでは経済的に無理だったからだ。

 

 スリランカでお坊様が経済的に生きるのに困る、ということは無いそうだ。スダンマ長老のスリランカのお寺もそれなりに大きなお寺だ。スリランカに帰れば何も困らないが、せっかく日本にいるスリランカ人が協力してお寺を作ったのだし、また日本語ででも教えに興味のある人がいるのならいつでも教えますよ、というスタンスだ。スマナサーラ長老のように、積極的に日本に広めたい、とは考えていないようだ。だからだろう、日本に合わせた方便の使い方に決定的な差があると、私は考えている。

 

 以前日本人の方が秋刀魚とsammāをかけてダジャレを言っていたら、スダンマ長老は「バカヤロウ!と言いたくなりますね」と注意していた。日本人からしたら「それくらい」と思うと思うが、信saddhāがあると、そういう話は出てこない。

 お供えの時も、お釈迦様に失礼のないように、無言が原則だ。しかし、前にも紹介したこの動画の4:50ように、

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あまりに法要の雰囲気が良くて白い歯が出てしまった、など、何が問題となろうか。

 日本人に「無言が原則」と言うと、誰かがしゃべった時に「無言だ!」と強制し始める。あれは戒禁取以前に、ただのバカだ。そんなの誰にでも言える。スマナサーラ長老もそういう日本人の性質はよくわかっているから、伝統的なテーラワーダの習慣についてはあまりはっきりとはおっしゃらない。日本人は自分の知ってることと違うと、すぐに「それは違う!」と言い出す。

 まあこの動画のニャーナナンダ長老のマハーメウナワも相当新しく、伝統的な立場か、と言われるとそうではないとも言えるので、この点今の日本の状況と重なるところはあるかも知れない。しかしこの法要にはほかの宗派のお坊様も多数参加されているので、そこは伝統的な法要、と位置付けてしまっていいと思う。

 

 マハーメウナワの話だったかどうかは確かではないが、その団体も最初は「お供えには意味がない」となっていたそうだ。しかし今ではどこよりも派手にお供えの儀式をする。

 芸術の分野でも、よく「伝統の枠にはまらず」という表現をする。飽くまで私個人の感想だが、「いやいや、その前にまずその伝統をしっかり学んでからにしろよ」ということが多い。伝統の枠を破るのは、その伝統の枠をよく知った人でないと、気持ち悪いものになってしまう。それはただ、「ちょっと伝統をつまんでみた」だけだ。勿論中には伝統の芸が極めてしっかりしていて、その上で現代的に表現をする人も多い。そういう人からは、やはり出てくるものが違う。

 なにも無い人が、伝統的なものを適当に解釈してはいけない。それこそ前に言った、「なんでもあり」になってしまう。具体的に言うと、力が無い。伝統は力だ。比丘サンガというのは大変特殊な団体で、お釈迦様の教えを守ることに意味がある。お釈迦様の教えを、改革するのが目的ではない。現代社会に合わせて行動することはあるが、お釈迦様の教えを知らない人が、「その合わせ方は問題だ」と言ったところで、相手にしない。比丘サンガ側だって、意味もなく、わからずにそんなことをしているわけではない。しかしお坊様に接点が少ない今の日本では、こんなことを言ってもわかってもらえないだろう。

 大学に通っていたころ、スダンマ長老は電車にも乗っていた。隣に女性が来たからといって、わざわざどいたりはしなかったそうだ。そもそも満員電車では移動すら無理だろう。噂に聞いた話だが、ミャンマーのお坊様は日本でも在家の運転する車でしか移動しないらしい。ここらへんは国によっても考え方が違うかもしれない。

 テーラワーダとは、「長老の教え」という意味。長年受け継がれてきた、伝統を身に着けた、年長者の教え。その長老たちの教えを聞かないで、在家が勝手に教えをこねくり回し始めたら、それはもうテーラワーダではない。

 

 何度も言うが、私はカジュアルに仏教に親しむことを否定したいわけではない。用語などについても、少しでも親しみを感じてもらえるのであれば有難い、くらいに思っている。しかし、「テーラワーダとは何なのか」となった時に、適当なことを言われるのは我慢がならない。テーラワーダを守るのは、出家だ。その出家に対して尊敬が無い人たちに、テーラワーダを語ってほしくない。信saddhāがある人が、その信仰の対象であるお釈迦様の教えを守る出家を、尊敬しないわけがない。出家に対して尊敬が無いことが文章からにじみ出てくる人たちの「これがテーラワーダだ」と言っているものを見ると、腹が立つ。

 

sakuragi-theravada.hatenablog.jp

 

 私の人柄は軽薄だ(笑)。