さくらぎ瀞がわかる範囲の(スリランカの)テーラワーダの教え

スダンマ長老の弟子(在家)がつぶやいてみる。(只今休止中です)

善行為をしよう、と思って来るのでなければ、寺に来なくていい

 スダンマ長老は、自分の立場を優位にするために寺に来る人が大っ嫌いだ。

 

 寺に来る以上、何か善行為をするために来る人は歓迎だが、そうでない人が来ることはとても嫌がる。

 

 その善行為は、なんでもいい。お布施の人もいれば、作務の人もいるし、法を聴きに来る人かもしれないし、すべてかも知れない。これは人によって、時によって違う。

 

 スダンマ長老は言う。「見栄でするお布施は意味がない」と。

 私はこの言葉にびっくりした。お布施はお布施だと思っていたからだ。

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畜生にも、悪人にもお布施。お布施であれば、与えるのであれば何でも良い、と思っていた。

 いや、最初はそれでいいのかもしれない。しかし見栄でするお布施は善行為とは言えない、という。

 

 はっきり言ってスガタ冥想センターはお金に困っている(笑)。ニャーナーランカーラ長老も「お金がない、お金がない」と言う。しかし、人に見せるためのお布施ならいらない。在家が善行為をすることこそ喜ぶ。

 これは冥想、作務、法話を聴く、なんにでも当てはまる。人に見せるためにやると、果たして善い結果があるかどうかは、考えてみればわかるだろう。例えば人を攻撃するために法を聴いたら、これは善行為とは言えない、ということは皆さんにもわかるだろう。

 つまり、善行為といわれることであっても、そのする人の心がどうなのか、ということが重要なのであって、人に見せるための善行為は要らないのだ。

 だからといって、決して人に見せるな、ということでも勿論ない。ほんとうにここはその人個人の心の問題なので、善行為をしている時にも自分の心を見ることは重要だ、ということだ。

 

 また、マハーカルナー長老の事件の時、「お布施を返せ」という話が出た。世間では当然のような気がするが、テーラワーダではれっきとした盗みだ。しかも上のリンクの話のようにお布施した時に比丘サンガにお布施した、と思ってお布施したものなら、比丘サンガから盗んだ、ということになる。大変大きな罪だ。

 ここがお布施の難しいところかもしれない。お布施するときは、お布施する前に喜び、お布施する時に喜び、お布施する後に喜ぶ、と経典にある。しかもこれはその順で難しい、とも説かれる。

 せっかくお布施する前、している時に喜んでいても、後で「ああ、あれはお布施しなければ今こんなことができたのに」と考えることはよくあることだ。白状すると、私にも何度かある(笑)。しかし返せ、と思ったことはない。

 また、悪人にお布施でも善行為だが、では相手が犯罪組織だと分かっているのにそれを援助するのが善行為か、というとそれは違う。

 極端な話だが、例えば、ある人が、いい行為をしている団体だと思ってISISにお布施したとしよう。実はこれは善行為だ。しかし、今はとんでもない団体だと知った。だからお布施はしない。しかし前にしたお布施を思い出して喜ぶ、これも善行為だ。「ああ、あのお布施をしなければ良かった」と後悔することは、「後悔」という言葉が入っていることからわかるとおり、悪行為だ。

 では、ISISの人が今目の前で飢え死にしそうになっている。こちらにはご飯がある。ではご飯を提供してあげよう、というのは善行為だ。

 まあ厳密に考え出すとその時の状況によってほんとうに智慧がないと判断できないのでこの辺にしておきたいが、大事なのは、お布施をする人の心の方であって、世間で言われる基準とお布施の基準はだいぶ違う、ということがわかっていただければ幸いである。

 

 まだテーラワーダに馴染みのない我々にはこういう基準がなかなかわからない。だから出家の態度に怒り出す在家の人も見ているが、出家が在家に合わせるのではない(方便、というかpayogasampattiとして合わせる、ということはあるが)、

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在家が出家に合わせる気がないのなら、別になにもテーラワーダをやる必要はない。テーラワーダは、在家宗教ではない。テーラ(長老の)ワーダ(教え)というくらいだ、出家が教えを伝える。その出家を在家が大事にしないで、なにがテーラワーダか、と思う。

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