さくらぎ瀞がわかる範囲の(スリランカの)テーラワーダの教え

スダンマ長老の弟子(在家)がつぶやいてみる。(只今休止中です)

テーラワーダの言語について

 寺によく来る在家の方で、ミッデニヤさんという方がいる。

 スリランカではお坊様学校の先生をされていた方で、以前十二縁起をスダンマ長老が教えてくれたことがあったが、

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その時もスダンマ長老はこの方を頼りにしていた。

 そのくらい知識がある人だが、ダンマパダは全部暗記できていないという。やはり暗記は難しいのか…

 さてこの人が言っていたのだが、シンハラ語は、日常会話はそんなに難しくないという。しかし、文法は死ぬほど難しいらしい。

 

 正式に書くと、シンハラ語は口語と文語は全然違う。その正式な文語を正しく書こうとすると無茶苦茶難しいということだろう。

 実は最近のSNSなどにあふれるいい加減な口語にお坊様方は眉をひそめているそうだ。まあこういうのはどこの国も同じなのかもしれないが、ということは、お坊様方は国語(シンハラ語)のプロで、伝統を守ることに重きを置いている、ということだ。中には国営放送のアナウンサーがしゃべったことについてどこが文法的におかしいかを毎週新聞で指摘しているお坊様もいるそうだ。

 

 法要でお坊様を紹介する時、paṇḍitaという言葉が入る時がある。ダンマパダの

https://tipitaka.org/romn/cscd/s0502m.mul5.xml

paṇḍitavaggoのpaṇḍitだ。

 このpaṇḍitというのは、パーリ語サンスクリット語シンハラ語の試験を合格した人に与えられるもので、お坊様を紹介する時にわざわざつけるほどのものなのだから、それなりの称号だ。

 日本語には詩作にそんなに厳密なルールはないが(俳句、短歌等には音や季語はある)、西洋語も然り、パーリ語サンスクリット語シンハラ語にも厳格に詩の形式、ルールが決まっている。

 パーリ語の韻のルールで嫌になった方も多いかもしれないが、サンスクリット語についてはもっと厳密で(それなりの階級の人しか使わなかったのだから当然と言えば当然か)、実はシンハラ語についてはとてつもなく難しい。

 この三つの言語については私はたいしてわからないが、それでも寺にいるとよくわかる。お坊様がパーリ語で言っても「偈だ」とわかるが、シンハラ語で偈を言うと、本当にすぐにわかる。リズムがあるし、韻を厳密に踏んでいるのが私にもわかる。このリズムや韻の形態で形がいろいろあるそうだ。英語のダンマパダの解説で、記号で解説してあるのを見たことがある人もいるだろう。

 テーラワーダパーリ語で伝えられているが、パーリ語は日常語であったということもあって、もちろん死語であるし、だからこそ変化せずに現代まで伝えられていて、パーリ語テーラワーダを伝えるから変化せずに後世に伝えることができるという最大のメリットがあるわけだが、語根がよくわからないものも多いらしい。そのためサンスクリットができないとわからないそうで、スリランカパーリ語を教える人がサンスクリットがわからない、ということはあり得ない。

 

 スガタ精舎の日常読誦経典を作ったときにローマ字表記の校閲を担当してくださったケラニヤ大学のサンスクリットの准教授マドゥルオイェ・ダンミッサラ長老(正山寺のダンミッサラ長老とは別のお坊様だ)はインドに留学なさっていて、ヒンディー語に堪能だ。

 この時にもいろいろ話を聞かせてくださったが、シンハラ語ヒンディー語は大変似ているという。しかし単語はなんとなくわかるが、会話ができるほど似ているわけではないという。

 スリランカではサンスクリット語シンハラ文字で書くが、デーヴァーナーガリーで読めるお坊様も多い。パーリ語はもともと文字を持たなかったが、サンスクリットは今では普通デーヴァーナーガリーだ。

 

 で、paṇḍit。これらの言語をただ読み書きできる、ということではなくて、それぞれの詩の形式を熟知した人たち、ということだ。そういう人たちがわんさかいる国なのだから、おかしな書き方をするとすぐにツッコミが入る。国の憲法で「(テーラワーダ)仏教が国教」と決められている国だから、その聖典を記述する言語を守ることにおいても、日本人の我々からはちょっと想像できない意欲があるようだ。

 しばらく前に、複数の国共同で仏陀の生涯を描いたドラマがあったが、あのシンハラ語版には、経典にないエピソードの時はいちいち字幕が出て、「これは経典には無いエピソードです」と出ていた。私はいくらなんでもそれはやりすぎだろうと思ったものだが、そういえば西澤先生も、ミャンマーでも「お坊様が教義と違うことを少しでも言うとみんなで袋叩きにしてつぶす」と言っていた。

 だからと言って、仏教学者というのは西洋の学者と同じで、独創性が勝負であることに変わりはなく、なので伝統をガチガチに守りながら、それでいて独創性を出す、という、ちょっと革新ばかり求めている人には縛りがきつすぎるんじゃなかろうかという中で戦っている(?)らしい。

 将棋の羽生名人は、将棋盤が大海に見えるらしい。私には将棋の駒の動かし方くらいしかわからずその発言の真意がまったく分からないが、そういうイメージだろうか。

 いや、まったくわからないが。

 

 とにかくテーラワーダというのは、伝統を守ることに関して我々の想像を超える努力を費やしている。これもお釈迦様の教えを守る、という強い意志から出たものだ。しかしそういった本国でもイスラム教の台頭等もあって、変なことを言い出すお坊様が増えてきている。この日本にあって、まだテーラワーダの教義について混乱があるのは、もしかしたらまだまだ平和なことなのかもしれない。