戒律が守れなかったといって悔いることも悪行為
今日はこの1冊にお世話になります。
・仏教事典(仏法篇)(パーリ語-英語-日本語)
ポー・オー・パユットー著 野中耕一翻訳
(施本版)
agatiについて調べようと思って4の項目を開いていたら、こんな記述があった。「え!?」と思ったので調べてみたのだが…
パーリ語と英語の部分は略します。
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卒塔婆に値する人:卒塔婆に値する人。特別な善のある人は塔を建立して祭祀すべきである。
1.ブッダ
2.縁覚
3.声聞:ブッダの声聞、通常は阿羅漢を意味する。
4.転輪王:正法をもって治める大王。
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と思って調べてみたら、
なるほど、ストゥーパの音写だったんですな。まったく知らなかった…
しかし、ここでは「ストゥーパ」とか「仏塔」とかでもよかった気がするのだが…(←自分がすぐにわからないと文句ばっか)。
さて、好評「ふわっ」と回の第2弾。
なにしろ私自身が詳しく調べたことではないので、いい加減なことを言う。しかし、テーラワーダの教義については自分なりに間違っていないとは思っている。
twitter仲間がチベット仏教について調べていたので、ネット上のものは私も興味深く読ませてもらった。
私は本当にチベット仏教についてはまったく知らないのだが、今回ネット上で見る限り、教義的には確かにテーラワーダから見てもそんなにおかしいことを言っていないことにびっくりした。
こういう点を見ても、やはり最も元になる聖典を伝えていくというのは大事だなあと思ったのだが、同時に修行方法や解釈は、私には「問題あるなあ」とも感じた。テーラワーダにも注釈書があんなに膨大にある意味も分かった気がする。
また、あちらに行くと分かると思うが、やたらと男性器の画が書いてある。シヴァリンガから来ているということは知っていたが、あの意味がまったく分からなかった。しかしなるほど、まじめに考えた上でのものであることは理解した。
これはテーラワーダの教えということではなく、ミャンマーのお坊様の説法で聞いた話なのだが、本来の自分が無警戒に現れてしまう瞬間というのがあって、これは性行為をしている時、深く眠っている時、そして脱皮する時とのことだった。
チベット仏教での性の扱いがどうにも腑に落ちなかったのだが、これでなるほど、納得した。スピリチュアル的には、チベット仏教は大変面白そうだ。
因みにその時というのは、危ない瞬間でもある。
それで思い出したが、テーラワーダで言う性欲というのは、なにも性行為したい、ということだけを指すのではない。母親が娘ではなく息子ばかりをかわいがってしまう、あれまでをも「性欲」という。世間的に言って別に「悪い」ということではないが、修行していく人はちょっと頭の片隅に置いておくと、新たな発見があると思う。
ちなみにその自分が現れる瞬間というのは、ナーガ(龍。スリランカ的に言うと、コブラのことだそうだ)が出家して他の出家を困らせた、という話があるだろう。その話の時に出たので、「脱皮」だ。
ナーガがどうしても出家したかったので、しかもそのナーガには神通力があるので人間の姿に化けることができ出家したのだが、寝ている時には元の姿に戻ってしまう。しかし起きるとまた人間の姿になっているので、本人はそのことを知らない。
まわりの出家があまりに怖がるのでお釈迦様に報告すると、お釈迦様はそのナーガに「ナーガの世界に帰りなさい」と言う。そのナーガは泣きながら「なんとか出家でいさせてください」と言うが、お釈迦様は3度「帰りなさい」と言う。
よく3度言う、というフレーズがテーラワーダでは出てくるが、あれは「絶対」と同義だ。まあ3度断ってそれでも求められるのでお釈迦様が答えた、という話もあるのでその定義が「絶対」とも言えないのだが、まあ普通は「3度言って受け入れれば良し」という話だ。以前にも書いたが、スダンマ長老も「3度言ってわからなければ、はい、さようなら」とおっしゃる。
さてそのナーガは、3度言われたのでさすがに引き下がった。泣きながらではあるが、ナーガの世界で、その後5戒を守り、布薩の日には8斎戒を守った。
出家する時に、「あなたは人間ですか?」と訊かれるフレーズがある。あれはこの話があったからだ。だから、なんと「事実」だ、とテーラワーダ上言わざるを得ない。
さて、どうだろう?これがテーラワーダの真実の姿だ(笑)。宗教くさいだろ~?
ではやっと戒律の話。
このブログで何度も言うように、テーラワーダでは悪行為をした、と後悔することも悪行為だ。つまり、「戒律を守れなかった」と悔やむことも、悪行為だ。
こう書くと、こうは思わないだろうか。
「じゃあ戒律を守る意味ないんじゃね?」
と。
もしそう思った人がいたとしたら、その人は悪いことを実はしたいのだが、罰があるのでやめています、という人だ。
テーラワーダでは5戒があるが、破ったところで別に罰則があるわけではない。しかし教義上長い間5戒を守っていると来世人間になれる、と言われる。
(男性)出家はパーティモッカ227がある。
テーラワーダで戒律といえば、これだけだ。戒律によって身口(語)の行為を整える、意味はそれだけだ。
パーティモッカには確かに罰則がある。しかしそれは組織としての比丘僧伽の法律であって、「戒」とは言えないかも知れない。だから「律vinaya」という。そこからもわかるだろう。日本人からすると国ごとに、宗派ごとにテーラワーダでも本山のようなものがあるように感じると思うが、飽くまで比丘僧伽は「一つ」だ。
なので、世の中の法律で罰則があることに私が文句を言いたいわけでは全くない。
ここが、テーラワーダが他の宗教と違う所だと思う。戒律を破ったからと言って罰があるわけではなく、守ることによって善行為をしやすい状態に、またはそれが善行為であるから推奨されるのであって、「破ったから悪行為です」と言いたいわけではない、ということだ。
戒律が厳しくないと、どうにも禁欲的な、修行的な生活をしていないような気がしてしまうのもわからないでもない。現にデーワダッタ長老はかなり厳しい戒律を制定しようとしたが、お釈迦様に却下され、別のところに行ってしまった。
法顕だか玄奘だか忘れてしまったが(汗)、インドに行ったらデーワダッタ長老の教団がまだ残っていた、という記述がある。結局それだけの力があった団体だ、ということだから、それが事実だとしたら、私はデーワダッタ長老がテーラワーダで言われるほどの悪者だったのか、というのは少し疑問ではある。現在でも他の流派(?)のお坊様をけちょんけちょんに言ったりする伝統(笑)から察するに、もしかしたらそこまでの悪者ではなかったのではないか、先日も書いたように「一つの教え」に徹底しているため他を排除せざるを得ないためにそういう流れにならざるを得なかったのではないか、という考えも捨てきれないではいる。
まあだからといって教義的に問題があるかというと、そんなことはない。このデーワダッタ長老の話からわかることは、「私の方がより厳しい戒律を守っています(から偉いです)」という慢mānaだ(それと見栄)。そして戒律がどんどん増えていく。
慢は関係ないが、こうして戒律にこだわることこそ戒禁取という。
どの学者も最古層の経典だと認める(なぜかと言うと、偈の形式が後世のものを踏襲していないからだ、とか言うとそれっぽいでしょ?)、スッタニパータに含まれる宝経にこうある。
引用は、富士スガタ精舎の日常読誦経典から。
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ye puggalā aṭṭha sataṃ pasatthā
有徳者が褒める聖なる八人、組でいうと四組、
(略)
sahāvassa dassana-sampadāya
聖なる智慧が生まれると
tayassu dhammā jahitā bhavanti,
三つの煩悩が無くなります。
sakkāyadiṭṭhi-vicikicchitañca
有身見、疑、
sīlabbataṃ vāpi yaditthi kiñci,
戒禁取です。
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スマナサーラ長老が、「テーラワーダ以外では悟りが無くなってしまった」と断言なさる理由がここにある。
因みに(が多いが、いつものことですね)テーラワーダで経典をたくさん唱えて祝福するというのは大乗仏教からの影響だ。その他108の玉(?)の数珠を使って仏隨念(itipi so~)をするというのは、密教からの影響だ。
本来のテーラワーダでは、食事のお布施と説法、それくらいだ、と聞いた。しかし宝経が最古層だとなると、これは明らかに祝福のものなので(もとの成り立ちがそうだ。これはネットで調べても出てくるだろう)、このくらいの祝福のお経は唱えたのかも知れない。
しかしこの宝経、はっきり言って「教え」というものが入っていない。同じスッタニパータにある、護経の代表格、吉祥経と慈経と違い、実践のしようがない、純粋な「護経」と言える。ただ真実を言って「その真実によって幸福でありますように」。逆に言えば、ここに書いてあることが真実でなかったとしたら力はありません、と宣言しているようなものだから、テーラワーダの「命」がかかっているお経だ。だから非常に力のあるお経、護経だ、と言われる。
ここで戒律の話に戻るが、ではテーラワーダの世界にまったく罰がないのか、というとそれもそうではない。やはりどうしても「罰が無いと悪いことをやめない」というのは有情の性なので、そこは智慧をもって、中道で、罰も考えなければならないところではある。
最後に、これまでの戒律の話で、それでも「足りない!」という人には、戒律ではないが、13の頭陀行がある。転法輪経にあるように、お釈迦様は苦行でも楽行でもない、中道を行きなさいとはおっしゃるが、この頭陀行はまるで苦行のようでもある。より速く煩悩を無くす道、涅槃に至る道、と言われる。だから誰にでも適用されるものではない。
パユットー長老の本から、抜き出して引用する。
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十三頭陀支
1.「わたしは在家の衣は控えて、糞掃衣支を受持します」
2.「わたしは四衣は控えて、三衣を受持します」
3.「わたしは余得は控えて常乞食支を受持します」
4.「わたしは好き勝手に歩くことは控えて、次第乞食支を受持します」
5.「わたしは別の場所で食事を摂ることを控えて、一座食支を受持します」
6.「わたしは第二の鉢を使うことを控えて、一鉢食支を受持します」
7.「わたしは余分な食事は控えて、時後不食支を受持します」
8.「わたしは人家の近くは控えて、阿練若住支を受持します」
9.「わたしは屋根葺きは控えて、樹下住支を受持します」
10.「わたしは屋根葺きと樹下は控えて、露地住支を受持します」
11.「わたしは墓地ではないところは控えて、塚間住支を受持します」
12.「わたしは住するところを心の中で欲することを控えて、随座住支を受持します」
13.「わたしは寝ること(横になること←さくらぎ註)を控えて、常座不臥支を受持します」
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