さくらぎ瀞がわかる範囲の(スリランカの)テーラワーダの教え

スダンマ長老の弟子(在家)がつぶやいてみる。(只今休止中です)

テーラワーダの沙弥について

 ネットを巡回していたら、大乗仏教出身でテーラワーダの国で数年出家されていた方が、「沙弥は未成年」と書かれていた。

 これはまずい、と思い、書かせていただく。

 

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 ここにも書いたが、沙弥というのは比丘見習いともいえるもので、20歳になるまでは比丘になれないから沙弥でいなさい、というものではない。もちろん20歳にならないと比丘にはなれない。

 沙弥から比丘サンガではあるが、比丘サンガの儀式には参加できない。たとえば布薩、ウポーサタでは戒壇の中に入れない。

 また布薩の関係で、沙弥は十戒であるが、比丘はパーティモッカを覚えていなければならない。

 

 日本テーラワーダ仏教協会のマーヤーデーヴィー精舎で一時出家修道会が行われたが、その時に皆はおかしいとは思わなかっただろうか。比丘出家なら、いきなり比丘出家儀式をすれば良い。20歳過ぎの大人が比丘出家するためになぜ沙弥出家儀式を先にしなければならないのか。未成年が沙弥であるなら、まったく必要ないはずだ。

 他の宗教をやっているならいざ知らず、テーラワーダをやっているのに沙弥に対して尊敬がないというのは、いかがなものかと思う。

 一時出家修道会の案内にも出家「役」と書かれていて、正直ふざけんな!と思った。演技でするものなのか。衣装が変わるだけだとでも思っているのか。

 私もそろそろ猫をかぶっているのに疲れてきた頃だ。言いたい放題言わせていただく。


 まず、日本テーラワーダ仏教協会の佐藤さんが、問題を起こした。

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 さすがプラユキ長老、見事な返しをなさっている。私はプラユキ長老にはお会いしたことがないし、ツイッターを見ている程度にしか知らないが、すばらしいお坊様だということはそれだけでわかる。

 佐藤さんの言いたいこともわかる。「それは違うんじゃないですか」と言いたかっただけだと思う。

 正直に白状すると、私も、プラユキ長老が「定は受容」とやった時には、のけぞった。しかし考えてみると、集中のためには対象を受容しなければいけないに決まっているわけで、後でそれに思い当たり大変反省をした。

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 ここにも書いたが、お坊様はこういうことをよくなさる。相手を思ってのことだ。

 スダンマ長老が、「説法の時にパーリ語の意味が違う、とか言い出すと問題になる。終わってから、言えばいい」とおっしゃっていた。意味がよく分かっていなかったが、これで分かった。

 佐藤さんは、自分の影響力の大きさを自覚していない。案の定、佐藤さんの発言に乗っかってくる人が現れた。

 私が言いたいのは、「黙れ」ということではない。この場合、公の場でそういうことを言うのは問題ではないか、ということだ。

 説法の場で指摘するのではなくて、そのあとで個人的に言うのであれば、お坊様も「あれはね」と、特別な事情があるのかも知れないし、特定の誰かに向けて言っているのかも知れない。それを個人的に説明できるかもしれないが、プラユキ長老がツイッターでそんなことを説明できるはずがない。

 問題なのは、水野弘元の

「「諸行無常」の行は最広義のものであり、五蘊の行はそれに次ぎ、十二縁起における行は最狭義のものである。」

 という表現が誤解を招く、ということだ。そう、これが定説だ。だから問題なのだ。

 行といえば、どこにでも適用できる。もちろん文脈によって意味の範囲は変わる。それは間違いない。しかし十二縁起における行は最狭義、というのはどうだろう。間違いではないのだが、わざわざそれを声高に言う必要があるのか。

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 私はスガタ精舎の佛道実践会で、viññāṇa-paccayā nāmarūpaṃあたりまで二度ほど十二縁起の話を聴いたが、まったくわからなかった。完全にわからなかった。これっぽっちもわからなかった。完敗というより惨敗だ。

 一応今までのブログで、「こいつもテーラワーダを勉強しているようだ」くらいはわかっていただけていると思うが、その私が、ほんとうに、微塵もわからなかった。とてつもなく、広く深い話だった。

 それが最狭義、といちいち言う必要があるのか。十二縁起も、五蘊も、生命のことだ。まあ確かにそう考えると諸行無常の行は生命以外のことも含むとも取れるし、

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ここにも書いた通り、「法マイナス涅槃、施設イコール行」とも取れる。そう取れば、一切行無常、一切行苦、ともに同じ範囲の行ととれば、涅槃と施設は外れて行、だからすべてを包含してOKともなる。

 まあそこは良いとしても、行saṅkhāraはその文字の通り、行いのことも指す。パーリ語なのかサンスクリットなのか、そこから漢字にした人は実に恐ろしい。まったく範囲まで間違っていない。

 しつこいようだが、行については私はまったくわからないので質問しないでいただきたいのだが、佛道実践会の十二縁起でも行の中で「行い」のことは出てきた。そこは間違いないが、その種類については訊かないでほしい。


 スダンマ長老が、こうもおっしゃっていた。「在家がパーリ語を勉強するのは大変良いことだ。しかし在家が出家にパーリ語をアドバイスしだすと問題が起こる」と。これも私にはよくわからなかった。

 これも何度も言うが、私は大乗仏教が間違いだ、と言いたいわけではない。純粋なテーラワーダが知りたいだけだ。大乗仏教の学者の説を持ってきてテーラワーダのお坊様に対して公の場で、テーラワーダにおいて影響力の大きい在家がああいうことを言うのは、どうだろうか。

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 私は、この十二縁起の法話をひじょーーーに楽しみにしていた。動画にもできる環境にあったし、書き起こしをしてこの法が、わかりやすい日本語で広まるんだ、と本当に興奮していた。

 しかし実際やってみると、本当に音声が入っていない、一つは「ちゅるちゅる」と高い音声で、スダンマ長老も「宇宙人みたい」と大笑いしていた。しかもこの日に限って、なぜかいつも録音している人が録音していなかった。読経大好きな私が翌朝の読経を寝過ごしてしまったほど、落ち込んだ。

 実はその時、スダンマ長老がおっしゃったことがある。このリンクには書かなかったのだが、「日本人には、十二縁起を聴く徳が無いですね」と。まったくその意味が分からなかったが、これでちょっとわかったような気がする。その後施本の話も無い。

 

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 ここで私は、スマナサーラ長老の正体をバラした。ついでだから、誰も興味ないだろうが、私の正体もバラそうと思う。

 マハーカルナー長老の事件の時に、テーラワーダ的にとんちんかんなことを言う人たちに5chで一人反論していたのは、私だ。

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 この法話をスダンマ長老に促したのも私、それを書き起こしたのも私だ。

 北陸ダンマサークルの面々が金沢の会を非常に楽しみにしていたので結果を聞いてみたら、とんでもないことになっていた。そういえばあれから丸一年になる。

 5ch後半では、問題を起こした人たちがスダンマ長老を担ぎ上げようとしていて、焦った。

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 ちょうどスリランカ人があまり来ていない時期で、そんな時にそういう人たちが来ても困るし、そんな時期に日本人であふれても正直困ったことになると思っていた。

 そんな焦りの気持ちから、行き過ぎた表現もあったと思う。この場を借りて、関係各位には謝罪したい。

 

 しかし、あの時期に、ではマハーカルナー長老が、その知識を使って公式に反論していたとしたら、あのサヤレーは今頃どうなっていただろうか。

 あのサヤレーは、発言はどうかと思うことが多いが(5chでやりあった仲だもんね)、翻訳については本人も言う通り誠実に訳しており、日本語でない部分も多く、ごく一部しか読んでいないが、テーラワーダ的にどうかと思うところは特にない。大乗仏教の学者が訳したものよりもよっぽど信頼できる。翻訳の許可を取っているかどうかは知らないが。

 おかげで、マハーカルナー長老も、激烈な方便を使う羽目になってしまった。まあご本人もおっしゃる通り、それで良かったのかも知れない。

 ネットでわかる情報を見ても、本当に修行者に特化した教え方をなさっているようである。だからこれについても、そこで習ったことがあまねくすべてに適用できると考えて、佐藤さんの問題のように、これが正しい!と言って他のお坊様に食って掛かったら大問題になる。だから他には見せるな、なのだ。私はマハーカルナー長老にもお会いしたことはない。


 ゴータミー精舎に、ダンミニーさんがいらっしゃった。教義的な話をなさる方ではなかったが、きちんとお坊様方を敬っておられた。私がダンミニーさんにガンガンやられているのを見た方も多いだろう。ダンミニーさんは在家だった。しかし沙弥、沙弥尼のように、尊敬できる方だった。


 日本テーラワーダ協会でのお坊様に対する態度の問題は、コーサッラ長老からもワンギーサ長老からもスダンマ長老からも聞いていた。

 まあわからないでもない。スマナサーラ長老が、先ほどの一時出家の話のリンクにある出家についてや、

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こういう話をしたら、それこそスマナサーラ教のような雰囲気になってしまうのは目に見えている。

 一時出家の比丘問題に関しては、一時出家修道会に参加されたスダンマ長老がこうおっしゃっていた。「スマナサーラ長老はスリランカにほとんどいないから、出家式にあまり出たことがない。だから知らないんじゃないんですか」と。

 私はそんなわけはないと思う。

 最近スマナサーラ長老は、只管打坐は悟りだ、とおっしゃっている。さすがにこれはスダンマ長老に確認した。「方便です。昔なら長老はそんなことは言わなかった」と。

 スマナサーラ長老も、ここまで組織が大きくなると、こういう方便を言わなければいけないのか、と暗澹とした気分になる。しかし、比丘にまで、方便を使っていただくわけには、到底いかない。いくらなんでも、「比丘」という立場が低く、安くなってしまう。

 出家、沙弥、比丘、そういう所への理解のなさから、今回書いた全ての問題は起こっている。お釈迦様の法を伝えるのは、比丘サンガ、仏法僧の「僧」だ。なんとお釈迦様の時代から現在まで続いている。それを支えているのは、伝統を守る「意思」だ。比丘サンガを敬う「心」だ。

 

 私はスマナサーラ長老に、「いやいや、私が間違いっていた、すまんかった」と言わせる気はない。

 

 最近スマナサーラ長老は、タイトルに騙されるな、ということをおっしゃっているそうだ。「日本テーラワーダ仏教協会」というタイトルに騙されるな、ということだ。スマナサーラ長老の活動を支えていることは間違いないが、やり方はまったくテーラワーダ的ではない。