さくらぎ瀞がわかる範囲の(スリランカの)テーラワーダの教え

スダンマ長老の弟子(在家)がつぶやいてみる。(只今休止中です)

スダンマ長老の書き起こし

fujisugatavihara.blogspot.com

  スダンマ長老の法話の書き起こしをしている。

www.asca-voitex.jp

 こちらのアプリを使っている。残念ながらmacには対応していないが、Windowsを使っていて書き起こしをする方には無条件でおすすめできる。


 さて、テーラワーダのお坊様はスパルタだ。今日はその話をしようと思う。

 

 日本人の方に聞くと、大概の方は「スダンマ長老は優しい」とおっしゃる。確かにその通りだ。しかしそれだけではないし、もしかしたら、長老が「いける!」と思ったら、豹変するかもしれない(笑)。

 現に、スリランカ人に聞くと、皆例外なく「スダンマ長老は厳しい」と言う。しかし、よく来る。

 

 もしかしたら日本人に対してはテーラワーダ文化圏ではないのでまだまだ遠慮があるのかも知れないが、信のある人に対してはずばっ!と痛いことを言う。しかしこれは相手のことを思って言うのであって、決して攻撃の意図があるわけではないことははたから見ていてよくわかる。

 スマナサーラ長老ももちろんそうだ。個人的な付き合いがあるわけではないが、大人数を前にしての説法でも「そこまで言ってしまっていいのか?!」とはらはらしたことは何度もある。あれだけの腕があれば良いに決まっているのだが。

 

 そして、ここがスダンマ長老がスマナサーラ長老と決定的に違うところかもしれないが、スダンマ長老は興味をもって精舎に来る人に対しては教えを伝えるが、教えを広める、ということに対してはあまり積極的ではない。在家がスダンマ長老の伝えたことを広めることに関しては喜んでくださるが、自ら広めて回る、ということは好まない。もちろん在家が興味をもって長老を呼んで教えを聞きたい、ということも大変お喜びになる。

 なので、特にテーラワーダの知識については、訊かないと答えてくれない。ある時断言されていた。「弟子が調べてこないと師匠は答えない。」私はこの言葉に震え上がった。この点スマナサーラ長老は大変親切だ。

 

 というわけで、書き起こしは、楽しいと同時に、大変苦労もしている。

 いくつか問題がある。

 これは通常の書き起こしと同じ問題だが、しゃべり言葉と書き言葉は違う。私はしゃべり言葉寄りの書き方を好むが、それはその方が語り手の人となりが出やすいから、という考えでそうしている。

 しかしだからといって、しゃべっている言葉そのままを書いてしまうと、実に読みにくい。さすがに読みにくい。いくら書く前提でしゃべっていたとしても、どうしても整えなければいけない箇所は出てくる。出版物にするまではいかないのだからそこまでのレベルに整える必要があるわけではないが、それでもできるだけ読みやすいようにしたい、という意図はある。

 が、これを整えすぎると、今度は人となりから離れてしまうし、またこの時点でテーラワーダの知識がないと、意味が違ってきてしまう恐れがある。私が一番恐れているのはここだ。正直なところ、日本語ではまだまだテーラワーダの真意が伝えられているものというのは、私個人の意見だが「皆無」と言っていい現状だ。スダンマ長老の話を聞けば聞くほどそう思う。

 日本には大乗仏教がある。それ自体は私も良いことだと思う。しかし、それだけに、大乗仏教テーラワーダと似ているだけに、細かいところの違いが非常に気になる。書いている人の前提に大乗仏教があると、どうしても最後のところで大乗仏教寄りになってしまっていることがどうも気になる。

 岩波から出ているラーフラ長老の本に気になる記述があったのでスダンマ長老に訊いてみたら、スダンマ長老はあからさまには言わなかったが、私は「ラーフラ長老がそんなことを言うわけがない」ととった。私もそう思う。明らかに訳の問題だ。ラーフラ長老は、中村元と並んでアジアを代表する仏教学者とされた方だ。確かオックスフォードの英語辞典だったか、仏教の項目を担当されたお坊様だ。

 中村元訳も、気になるところがある。パーリ語を日本語に訳していてくれるだけで非常にありがたい。ありがたいのではあるが、細かいところでは気になる。「涅槃」が「安らぎ」ではだめだろう、と思う。

 そういう本はあっていいし、パーリ語で仏教を、ということを日本に広めたのは中村先生だ。その業績はすごいものがある。しかし、テーラワーダを原理的に知りたい、となると、やや霞がかってしまうことは否めない。

 (そうとう遠慮して書いています)

 しかしここだけはわかってほしいのだが、大乗仏教が間違いだとか、そういうことが言いたいのではない。教義的に好きなところもあるし、なにしろ日本のお寺に行くと心が落ち着く。心の原風景、とでも言うのだろうか。私が言いたいのは、裸のままのテーラワーダがまず知りたい、ということだ。


 次の問題は、そしてこれが最大の問題だが、パーリ語だ。スダンマ長老はすらっとパーリ語を口に出すが、これを書き起こすのは難問だ。

palidictionary.appspot.com

 ここで単語を調べたりするが、無い。相当無い。

 また、「パーリ語で」と言いながらサンスクリットだった、ということはよくある。今ではだいぶ慣れたが、だからといって簡単になったかというと、ぜんぜんそんなことはない。

 シンハラ語では、サンスクリットの言葉は日常的に出てくる。仏教用語は、パーリ語でも言うが日常的に使うのはサンスクリットの方が多い。

 アリヤダンマ長老の、どの動画か忘れたが、youtubeにあるもので、最初サンスクリットで言ってしまって「ああ」とパーリ語に言い直したものがあった。アリヤダンマ長老ですらそうなのか、とその時私もあきらめた(笑)。

 

 何が問題かって、綴りがわからない。私の耳ではまだまだdなのかḍなのかdhなのかḍhなのかわからない。単語が頭の中に入っていればいいのだが、そんなにボキャブラリーもないので「ああ、あれか」とはまったくいかない。

 これが「調べてこないと答えない」に私が震え上がった理由だ。ただ「わかりません~」と言っても、答えてくれない。まあ逆にいえば「お前ならこれくらいできるだろう」ともとれるわけだが、こっちは必死でそれどころではない。で、色々調べまくったが結局わかりませんでした教えてください、となればするっと教えてくれる。

 そして、これが「スパルタだ」と言った所以だ。私の場合はガンガン言われるより、こちらの方がきつい。きついがやりがいはある。やりがいはあるが、とことんきつい。しかし楽しい(笑)。

 

 そしてまた、精舎に足が向く。