さくらぎ瀞がわかる範囲の(スリランカの)テーラワーダの教え

スダンマ長老の弟子(在家)がつぶやいてみる。(只今休止中です)

アビダンマッタサンガハを読んでみた

 先日、

sakuragi-theravada.hatenablog.jp

こちらの記事で、日本語がよくわからないが、気合を入れてウェープッラ長老のアビダンマッタサンガハ・南方仏教哲学教義概説を読んでみよう、と言った。

 そして、読んでみた。まだ最初の方だけではあるが。

 

 おかしい。わかる(笑)。

 

 前はあれだけ読んでもさっぱりわからなかったのだが、今読むと何が書いてあるのかわかる。しかも註まであるではないか。我々には強い味方tipitaka.orgがある。

tipitaka.org

註はさすがに第六結集版のページ数しか書いてないが、どの本に書いてあるのかがわかるだけでも、無茶苦茶ありがたい。別にそれほどパーリ語がわかるわけではないが、これは夢が広がるではないか。雰囲気だけでも味わおう。


 さて、これを読んで、腹が立った。最初にある水野弘元先生の、「アビダンマッタサンガハの解説」に腹が立つ。何が腹が立つか、って、9割がた合っているくせに、大事なところでテーラワーダ的に「それはどうだ」というところが出てくるところだ。

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 昨日の記事にも書いたのだが、まあ当たり前と言えば当たり前なのだが、大乗仏教テーラワーダは大変似ている。似ているだけに、細かい私は、その細かい違いがひじょーーに気になる。

 

 これはもしかしたら、wikipediaみたいなものかも知れない。自分の専門分野で調べると、9割がた合っている。しかし、1割はまずい。でも、目くじら立てて言うほどのものでもないし、自分にとってもそれまで知らなかった極めて有用な情報もある。ちなみに仏教用語の日本語のwikipediaも、テーラワーダ的にそんな感じがする。きわめて参考にはなるんだが、「ん、その話はテーラワーダには無いぞ」ということが結構ある。

 

 というわけで、日本語でパーリ語を知ることにおいて水野弘元先生の業績は大変大きいのだが、細かい私にはう~ん気になる、という話でした。