さくらぎ瀞がわかる範囲の(スリランカの)テーラワーダの教え

スダンマ長老の弟子(在家)がつぶやいてみる。(只今休止中です)

アビダンマ(略)の読書感想文15

 今日もこの2冊にお世話になります。


・アビダンマッタサンガハ 南方仏教哲学教義概説
 監修 水野弘元、訳注 ウ・ウェープッラ、戸田忠
 アビダンマッタサンガハ刊行会


・アビダンマ基礎講座用テキスト
 ウ・コーサッラ西澤


 49頁。

 

 共浄心所19。

 

 信と念についてはもう以前に書いた。

 

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慚 悪行を作すことを、内心に慚じ厭うこと。
愧 悪行を作すことを外部に怖れること。
善に関する慚や愧は、真の慚・愧ではなく、錯覚による慚愧である。具体的には、貪が主となる不善心所である。悪行を作した後、他人に知られて恥じ怖れる場合は、憂が主となる不善心心所である。

 

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 慚愧に堪えない、の慚と愧、だ。これを、浄心所としてアビダンマは規定している。しかし、私には善に関する慚愧が貪が主となる、という意味がよくわからない。貪についてのアビダンマにおける定義がよくわかっていないことが原因だろう。

 よくわからないことに、慢が貪のグループだ、というのもある。自分が好きだから慢なのか、しかしそれではまるで自分が好きではいけないみたいではないか。

 

 ここはなかなか難しい所だが、嫌う、というのと厭う、というのは違う、と思っておいた方が良い、と私は思っている。嫌う、となると怒りになってしまう。貪を離れることが厭う、ととれば分かりやすいだろうか。

 

 ここが、今の日本のテーラワーダ界においても誤解されているところだと感じている。そりゃあスマナサーラ長老はインパクトのあるように言うからそう思ってしまうのも無理ないとは思う。まあ日本語的な定義としてもそういう区別がされているわけではないので仕方がないこともあるが、テーラワーダ的には、日本語訳に「厭」と出てきたら、大概貪から離れる意味だ。そういう用語に対して「嫌」というのは私が思い出せる限り、見たことがない。

 

 貪から離れることは不貪。

 嫌がる、拒否する、という瞋ではない。

 

 ここを勘違いしてしまうので、厭世的になったり(ほら、ここには「厭」が入っている。飽くまでテーラワーダ的な日本語の使い方だ、とご了承いただきたい)、世直し的になってしまったりする。不貪と瞋はきっちりと区別しておかないと実は危ないのだが、まあ今までそんな話にもあまり行き当たったことがないので、ということはスマナサーラ長老の意図としては、まずは欲をなんとかしなさいよ、ということだったのだろう。

 私などはもともとあまり欲が強い方ではないのではないかと思っているので、結構最初から気になっていたことだが、今日これを書くことでなんだかすっきりした。ありがとうございます。

 

 悪行をした後に恥じる場合は不善だ、というのは昨日話をした。


 というわけで、結局慚愧は善、善行を恥じたり怖れると不善、不善行為をしたのにそれを後で恥じるのも不善、というわけだ。まあアビダンマとしては、過去にした悪いことを思い出してもろくなことは無いのだから、そんなことは忘れて善いことしようぜよ、ということですな。

 


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慚愧の故に人間の世界は、幾分清浄となり得るのであり、もしこれが無ければ動物の世界と変わらなくなる。慚愧が世間を護る法(lokapāladhamma)と言われるのはその為である。

 

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 う~ん、私にはよくわからない。確かにそういう要素であることは確かだが、「これが無ければ動物の世界と変わらなくなる」のだろうか。例えば「とにかく善をしたい」という心に、慚愧もくそも無いような気がするのだが。

 また、動物を飼っている人ならわかると思うが、意外に動物も、悪いことをして怒られたりすると、恥ずかしがったりする。まあだからといって社会的に構成されている人間界のようなシステムができるのか、というとそうではないが。

 

 な~んて質問をアビダンマを教えるお坊様にしようものなら相当嫌がられるので、すんなりアビダンマを習いたい人はそういう疑問を抱いても質問しないことをお勧めする(笑)。

 

 もしかしたら冥想が進んだら見える深い意味があるのかも知れないが、私にはまったくわからないので、この問題は放置。

 

 とにかく浄心にはすべてに慚愧が含まれている。

 

 

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無貪 世間の所縁に執着し、貪らないこと。

 

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 不貪、無貪についてはこちらに書いた。

sakuragi-theravada.hatenablog.jp

不貪だろうが無貪だろうがパーリ語はalobhaなので、訳の問題だ。特に意味はない。無我だろうが非我だろうが、関係ない。あれは施設がわかっていない人が勝手に言っているだけだ。施設についてはこちらに書いた。

sakuragi-theravada.hatenablog.jp

 

 施設というより、世俗諦と勝義諦について分かっていないだけだ。世俗諦と勝義諦については、こちらに書いた。

sakuragi-theravada.hatenablog.jp


 「私」がない、と言ったところで、では会社の会議の時に誰かが「私はこう思います。」と言ったとする。その時に誰かが「いえ、「私」というのは存在しないんです。」とか言い出したら、どうだろう。かなりめんどくさい奴ではないか。そういう区別ができないやつらが、無我だの非我だのでやんややんや言いたいだけ。

 

 重ねて言うが、ほかの宗派について批判したいのではない。ただし、テーラワーダに於いての無我、非我の話をしているのだとすれば、それはこちらから見ればただの笑い話でしかない。このくらいの話であれば、私のブログを読んでもらうだけで理解できるはずだ。その位、そんなにレベルの高い話ではない。本人たちはレベルの高い話だと思っているようだが。

 正直な所を言うと、このくらいのことが理解できない人とは、お話したくない。大〇仏教の学者とも話をしたくない理由はここにある。これが原因で、明らかに訳がおかしなところが結構ある。

 

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無瞋 激怒しないこと。

 

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 そうなの!?「激怒」のみに適用なの?

 

 まあ相当以前に、スガタ精舎に、ミャンマーで修行してきた人が質問した時に、スダンマ長老がおっしゃっていた。「怒りは別に冥想の妨げにはならない」と。vyāpādaとかpaṭighaはだめだ、と言っていたような気がする。

 

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中捨 心心所を各々過不足なく、一方に寄ることなく働かせ、その均衡を保つこと。

 

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 バランスは大事だ。どちらかに行き過ぎてもいけない。

 

 だから、こういった経験をしたことのある方は結構いらっしゃるはずだ。お坊様は以前こう言っていたのに、今回は反対のことを言われた。なぜなのだ、と。それはこのバランス、中捨、中道を取るためだ。これは

sakuragi-theravada.hatenablog.jp

こちらや

sakuragi-theravada.hatenablog.jp

こちらに書いた。

 「真理というのは永遠不変で、固定されたものだ」と考えるから、これらが理解できない。なぜ固定されたものだと考えてしまうかは上の施設(せせつ)のリンクに書いた。お坊様も、その固定されたものだと考えることこそ無我だからあり得ない話で、無常だから固定などされていないのですよ、と言っているのに。永遠不変=固定と考えてしまうからそうなってしまう。まあそれも無理はない。普通の世間的な言葉としては、別にそれで間違っているわけではない、と言っていい。しかし、テーラワーダでは違う。私はそこらへんが勝義諦、と言いたいわけではないが、まあそう取ってもらっても構わないと思う。恐らく…