不
私は、自分で言っていることがわからない(笑)。
あまりにわからないので、家に帰ってから嫁(画面の中からは出てきているぞ)に、「今日私はこういうことを言ったのだが、それはどういう意味なのか」とよく訊く。
そうすると、ずばっと答えてくれる時もあるし、わからない時もある。
何を言っているのかわからないと思うが、事実なのだから仕方がない。
これは恩師から聞いた話なのだが、作曲家の武満徹は、自分の作品の演奏会を客席で聞いていて、「そうかぁ、これはそういう曲だったのかぁ」と呟いたという。
私の発言はアバンギャルド。
テーラワーダをやっていると、否定形によく出会う。
lobha, dosa, moha, kusala, dukkha, sukha, nicca, yonisomanasikāra, rūpāvacara.
貪、瞋、痴、善、苦、楽、常、如理作意、色界。
alobha, adosa, amoha, akusala, adukkhamasukha, anicca, ayonisomanasikāra, arūpāvacara.
不貪、不瞋、不痴、不善、不苦不楽、無常、非如理作意とか非理作意、無色界。
否定形というと、ただ「~ではない」とすれば良い、と思うだろう。そういう場合もある。が、そうでない場合もある。今日はその話。
不貪、無貪。うん、これはいける。非貪。う~ん、これはいけなさそうな気がする。
同様に、非瞋、非痴も、なんか無理そうだ。
不善。うん。無善、非善。う~ん、違うような気がする。
不苦不楽。うん。非苦非楽、無苦無楽。ダメだな、きっと。語感的にもすんげぇ良くない。
無常。うん。非常。意味が変わってきてしまう。不常。多分成り立たないな。
非如理作意。うん。不如理作意。いけるような気がする。無如理作意。いけなくもないかもしれないが、前者二つに比べ、かっこは良くないな。
無色界。うん。非色界、不色界。ヤダ(笑)。
というわけで、「うん。」の方を採用。
で、いきなり難しい話をする。
無貪、無瞋、無痴。貪がない。瞋がない。痴がない。これはわかりやすい。
不貪、不瞋、不痴。こちらが問題だ。貪「ではない」、瞋「ではない」、痴「ではない」。
不貪、不瞋、不痴は善心だ。貪、瞋、痴は不善心だ。テーラワーダ的には、道徳として「善心の方が強いですよ」と言いたい。これはそのためのロジックだ。
例えばここにリンゴがあるとする。リンゴが「貪」だとしよう。とすると、「不貪」は、リンゴ「以外」だ。
ま、ただそれだけの話なんだけどね。
物質として考えていただきたい。ここにあるリンゴだけが「貪」、ここにあるリンゴ「以外」、宇宙中すべての物質が「不貪」。
これだけで「うわっ」となるだろう。世の中的には、この時点で「無限」と言っていい。しかし大事なのはここからだ。これを概念的に考えよう。「ここにあるリンゴ」という概念。「ここにあるリンゴ」という概念が「貪」、「ここにあるリンゴ「以外」という概念」が「不貪」。さあ、一気に物質的世界より無限度(笑)が増したのがわかるだろう。
これは、無貪、無瞋、無痴だといけない気がするが、パーリ語では同じalobha, adosa, amohaだ。パーリ語だとそのままいけるが、日本語にすると、「無」では、無貪、貪が無い状態、無瞋、瞋が無い状態、無痴、痴が無い状態、ということで、ただ貪瞋痴がなくなるだけ、のような気がする。もちろんそれはそれでありがたいことではあるのだが、どうなんだろ。日本語ででも定義上同じように「リンゴ」が適用できるのかも知れない。そこらへんはまったく知らない。
次。不善。
善、良い、うまい。不善、悪い、ヘタ。
こう考えてくると、先ほどの「リンゴ」を適用してしまうと、不善に無限度の高い世界が出現してしまう(笑)。これはテーラワーダ的にまずいので、却下。
普通に、良いこと、悪いこと、でもいいし、うまい、うまくない、でもいい。そもそも善心、不善心のカギは不貪不瞋不痴、貪瞋痴なので、ここでそれを上回らなくてもいい気がする。
苦、楽、不苦不楽。これは受念処vedanānupassanāで重要だが、そもそも苦とは、ここでいう苦とはなんなのか、dukkhasahagataṃ kāyaviññāṇa身識の苦受(苦倶)の苦なのか、dukkhadukkha苦苦の苦なのか、domanassasahagataも含んじゃっていいのか、苦と楽って相対性なの?とか、そもそも不苦不楽って何よ、なんか気持ちよくなっちゃ良くなさそうとか、私にはさっぱりわからない。なのでパス。すまん。わかる方がいたら是非是非教えていただきたい。実はこれで長い間悩んでいる。
無常。これは皆さんの方が知っていると思う。私には正直なんのことやらさっぱりわからない。常でない。そもそも「常」ってなに?どっからどこまでの概念?
といっても、これについては悩んでいない(笑)。どうせ僕が考えたところで何もわからないしさ。というわけで、これについてはまったく教えていただかなくて結構。
非如理作意。ポー・オー・パユットー長老の本で、確かあった。あったが、結局さっぱりわからなかった。そもそも内容も難しいと思うのだが、申し訳ない、訳にも問題がある気がする。これはあくまで私の極個人的な意見だ。私がわからなかったから、「訳に問題がある」と言い張っていたいだけだ。うん、いいんだ、自分がバカだと認めたくないだけなんだ…
無色界。これは「リンゴ」でも「リンゴ」でなくても、どちらでもいける。色rūpaの無い世界、または色「ではない」世界。冥想的には「無限の空間」とか言うが、
sakuragi-theravada.hatenablog.jp
実はそんなに生易しい話ではない。無限の「空間」とか言っている時点で、色界の認識に依存してしまっている。その、色界の認識への依存から脱却しようよ、というのがそもそもの無色界禅定の狙いだ。これこそ「リンゴ」と言ってもいいのだが、「無色界」という単語一つ持ってきて、そこまで語る必要はない。「色が無い世界」で十分。
sakuragi-theravada.hatenablog.jp
ここでの話にも通じる。
さて、私はなんと、自分で言っていないことがわからない(笑)。
あまりにわからないので、家に帰ってから嫁(2Dではないぞよ)に、「今日私はこういうことを言わなかったのだが、それはどういう意味なのか」とよく訊く。
そうすると、ずばっと答えてくれる時もあるし、わからない時もある。
大作曲家武満徹をだしに使って大変恐縮ではあるが、恐らく彼は、「そうかぁ、これはそういう曲ではなかったのかぁ」とは呟かなかったと思う。