さくらぎ瀞がわかる範囲の(スリランカの)テーラワーダの教え

スダンマ長老の弟子(在家)がつぶやいてみる。(只今休止中です)

預流果とは

 そんなん知るか(笑)。

 

 私は預流果になったことがない。だからわからない。

 

 しかし、一つだけ確実なことが言える。預流果の人は、私より頭が良い。細かい私がいくら突っ込んでも、論理的に返してきてくれる。

 なぜか。真理を知っているからだ。真理を知っているから、どの方面から切り込んでも、「〇〇先生がこう言っていた」などというマウンティングなしに、自分の言葉でその真理を説明できる。

 いや、能力の差はある。もしかしたら言語能力は突出していないかも知れない。人に伝えるのが苦手かも知れない。しかし、私が「この人は、私が知らない何かを知っている」と感じることだけは確実だ、ということは言える。


 スマナサーラ長老を初めて知ったのは、養老孟司さんとの対談本だった。

 養老孟司さんは、それまで私が一番頭が良いと思っていた人だ。憧れの人で、なぜか私の短大に講演に来たことがあって、それはもう嬉しくて嬉しくて、最前列に陣取って聴き入った。内容は、九相詩絵巻だった。

 もうとにかく話がしたくて、なんかノートを持って行って質問した。内容はまったく覚えていない。しかし、あのテレビでの雰囲気と変わらず、ただの一学生の相手をしてくれたことを強烈に覚えている。

 それまでにも有名人には何人かに会っている。しかし、やはり扱いはそれなりだった。いや、それでも良い。有名人だからと言って、会う人会う人すべてに愛想よくしていたら、疲れてしまうだろう。それが向いている人もいる、向いていない人もいる。

 しかし養老さんは、質問にいちいち丁寧に答えてくれた。内容は覚えていないが(笑)、その丁寧さに、「やはりこの人は頭が良い。この質問に対して誤魔化さずに答えてくれる」と確信した。

 その養老さんが、「仏教が」と言い出した。私は「なにを言い出すのか。宗教なんて」と思った。

 どこで知ったのか忘れたが、その養老さんと、スリランカの坊さんの対談本があるらしい。その「仏教」とやらを見せてもらおうか、という気持ちだった。

 まあこの時の驚きたるや。言い方は悪いし養老さんに失礼極まりない言い方だが、そう思ってしまったのだから仕方がない。私が一番頭が良いと思っていた養老さんが、まるで赤ちゃん扱いだった。世の中にはとんでもない奴がいる、そう思った。

 しばらくすると、名古屋で法話会が始まるらしい、と知った。喜び勇んで行った。実際に話を聴いてみると、想像以上にすごい人だった。


 当時はわかっていなかったのだが、毎回宿題が出される。本人はわかっていない。挑発されたりおだてられたりして、なんかやってしまうのだ。そして、次の会には、「どうだ!」と鼻を高くして行くわけだが、まあこれがコテンパンにしてやられて帰ってくることになる。

 しかし、これほど気分が良いことはない!私が話を訊いても、大概の人は「そんな話はどうでもいい」とか「そんなこと知ってどうすんの」とか言って答えてくれない。そうでなければ、誤魔化されることが多かった。だから、完敗できなかった。「お前、バカじゃねーの」と言うことは簡単だが、「自分、バカかもしれない」と思わせるのは至難の業だ。


 スダンマ長老も、答えてくれる。いや、たまには「そんなことはどうでもいい」ということもある(笑)。さすがに距離が近くなると、どれもこれもすべて答える、というのは無理だし、後でわかることになるが、師匠が答えるべきでなかったこともある。スマナサーラ長老とは個人的な付き合いがあるわけではないし、スマナサーラ長老にも、距離が近いとそういうことが、もしかしたらあるのかも知れない。

 

 得意、不得意はある。テーラワーダのお坊様でも、それはある。スダンマ長老にも、苦手なものがある。正直に言うと、私でも「なぜこれができないのだろう」と思ったことはある。

 しかしこれは、業、生まれ、だ。日本だと特にそうなのかもしれないが、これが無視されがちだ。業、生まれに逆らって、その人らしさからかけ離れたところで生きていると、不幸になってしまう。癖がないのは、正自覚者であるお釈迦様だけだ。大阿羅漢の方たちにも、癖がある。一時期「自分探し」が流行ったが、なぜ自分を探すのかというと、今の自分が本来のあるべき自分とかけ離れていると感じるからだ。私も今、自分探しの真っ最中だ。

 

 私は当たり障りの「ある」人だ。その自覚は、ある。なんか問題になりそうなので、恐らく小さいころから、自分を殺して生きてきた。でも、もういいや、と思って、このブログをはじめてみた。

 

 私は小さいころから、とりあえずなんでもできた。大概のことは見ただけでわかった。だからなにか一つの道を究めようなどと思ったことはない。

 だから、この動画を見た時、私は何の疑いもなく、自分は「前者」だと思った。

www.youtube.com

ネーミングは、逆ではないか、という違和感があった。

 見た翌日だったと思う。「あれ、俺、後者だ」と突然思うと同時に、吐き気に襲われた。四十年余、自分を勘違いし続けて生きてきたことに、気付いた。

 

youtu.be

 さらに驚いた。もう何言ってるかわからない(笑)。

 まあとにかく、私は偽装前者だった。嫁は、後者だと思い込んでいたが、前者だった。これにより、やっと何かが変わる気がした。

 どこからとってきたか忘れてしまったので、あまりに感動して自分で書いたメモをもとにここに書き起こすが、もとは心屋仁之助さんのブログにある。

ameblo.jp

ここからの引用だ。

 


引用引用引用引用引用引用引用引用引用

 

 後者は「え???わたし、なにもしてないよ???」「何の役にも立ってないよ???」ぐらいがちょうどいいです。
 頼まれてもないこと、気を回すこと、役に立とうとすること、褒められようとすること、しなくていいのです。
 「良かれと思ったこと」は、あんまり喜ばれません。
 だから、楽しいことだけやっててください。

 

引用ここまで引用ここまで引用ここまで

 


 なんか、これで自分が当たり障りがある理由が分かった気がする。最近は、変な気を回すのはやめよう、と思っている。すると、なぜかまわりに笑顔が多い気がしている。


 預流果になれる人かどうかも、教義上、業、生まれで決まってしまっている。

 実は私は、あまり悟りたいとは思っていない。スマナサーラ長老があまりに言うので、「まあ悟れって言うし、目指してみればいいのかなあ」程度にしか思っていない。

 しかし、テーラワーダは好きだ。大好きだ!この細かい私が、どこまで突っ込んでいっても、矛盾がない。当たり前だが、三蔵には教義上、矛盾がない。あの膨大な書物のすべてに、矛盾がない。さすがに注釈書になるとどうかと思うところもあるし、お坊様同士やりあってたりする。しかし、貴重な資料であることには変わりなく、やはり注釈書なしに三蔵の意味はわからない。

 だから私は、そういう心を持った人が訳した、テーラワーダの書物が読みたい。残念ながら私の英語は、他にもパーリ語サンスクリット語も、いまいちだ。勉強したいと思っても、正直日本語には資料がない。シンハラ語や、タイ語ビルマ語、ラオスクメール語などが読めればいいんだが…