さくらぎ瀞がわかる範囲の(スリランカの)テーラワーダの教え

スダンマ長老の弟子(在家)がつぶやいてみる。(只今休止中です)

アビダンマ(略)の読書感想文2

 アビダンマッタサンガハの読書感想文の続きを書こうと思い20頁を読んだら、「おや?」と色々調べなくてはならなくなった。

 これは面倒だ。今までなんかろくに調べもせずに書いているのに、こんなことはしたくない。したくないが、アビダンマッタサンガハが頭に入っているわけではないので、仕方がない。

 というわけで、何度も言うが、これはアビダンマの解説ではない。私の読書感想文だ。ここが間違っている、とかいう指摘はどうかご勘弁願いたい。


 今回もこの2冊にお世話になります。

 

・アビダンマッタサンガハ 南方仏教哲学教義概説
 監修 水野弘元、訳注 ウ・ウェープッラ、戸田忠
 アビダンマッタサンガハ刊行会

 

・アビダンマ基礎講座用テキスト
 ウ・コーサッラ西澤


 20頁。

 第一義、勝義諦とは、心、心所、色、涅槃の四つだよね、とのこと。

 アビダンマではこの前提で話が進んでいくわけだが、経典ではそうではなかったりする。

 dve nāma kiṃ? nāmañca rūpañca.二つと言えば、名と色だよね、と。

 禅定については、よく「経典では第四禅定、アビダンマでは第五禅定」なんて言い方を聞くだろう。アビダンマでは五禅支によって分けるので五つになるが、経典ではそういう分析はしていないので、色界禅定は四つ。

 アビダンマでは用語の規定が(比較的)固定感があるので、それを用いてあらゆる方向から分析する時に不都合が起きないようになっている。

 それに対し経典は、以前も書いたように、対機説法が基本だ。お釈迦様からしたら、名と色がわかれば悟れる智慧を持つ人に、わざわざどうでもいい心所とか涅槃とか持ってくる必要はない。だから場所によって、同じことを言っていても項目の数が違っていたりする。

 同じ人でも、時によって違うかもしれない。まるで反対のことを言われるかもしれない。だから経典的に考えると、用語が固定されている、というのはまずい場合がある。これは日本人からすればかなり混乱する事態だ。文脈によって意味が成り立つ範囲が鵺のように捉えどころがなくなってしまう。だからこれまた以前も書いたように、たとえば日本人の「どうも」の意味のように、多少文化的背景やインド文化知識がないと、正直難しい。

 それを嫌ってなのか、アビダンマではあれば用語を固定的に考えやすいからなのか、一部の層から人気があるようだが、私の経験上残念ながらそれはあまり期待できない。アビダンマだって、五十歩百歩だ。だからアビダンマッタサンガハを学ぶときには、心づもりとしてはテーラワーダの基礎知識の用語をなんとなく覚えていく段階、としておいた方が無難だ。お坊様だって、アビダンマの用語を持ち出して対機説法することはよくある。

 でも、明らかに「どうも」の使いどころがおかしい、ということはわかる。決して間違えてはならないのは、「なんでもあり」ではない、ということだ。

 というわけなので、私のものは対機説法ではまるでないが、「あのお坊様と言っていることが違う」と言って突っ込むのはご容赦いただきたい(と予防線を先に張っておく)。


 さて、勝義諦。早い話が、真理だ。

 これに対して、真理ではなく、世間で決められていることを世俗諦という。西澤先生の本の69頁にこうある。


引用引用引用引用引用引用引用引用引用

 

第一義(勝義)諦ではなく世間において共通認識として認められた法を世俗諦と呼ぶ。

 

引用ここまで引用ここまで引用ここまで


 中には勿論共通認識として認められていないものもあるが、世間的に「こういう意味だよね」とか「こういう決まりだよね」とされていること。仏教的に言うと、ま、結局真理以外、となるのかも知れない。

 誰かが「これが真理だ!」と言っても、テーラワーダ的には勝義諦以外は真理、第一義ではないよ、と言いたいのだ。それも施設にすぎないよ、と。

sakuragi-theravada.hatenablog.jp

 施設は相当後、最後の方に出てくるので、とりあえず今はこのくらいの説明で分かっていただけるとありがたい。といってもじゃあ後の方になってこれ以上のことが書けるのかと言われると、まったく書ける気はしていないのだが。

 世俗諦についても、施設に親しむとより見えてくるものがあるかも知れない。


 ここで大問題となるのは、この真理、第一義諦、勝義諦について説明、考えるときにも、世俗諦、施設を使っているんだよ、ということだ。ここの区別ができないと、施設を真理だと勘違いしてしまう、という事態に陥ってしまう。

 私ももう何人にもそういう人たちに会っているので書いてしまって構わないと思うのだが、この私に偉そうに無常・苦・無我について説明してくれる人たちがいる。申し訳ないが、スマナサーラ長老が言っていることのリピートだ。この時点で「真理がわかってない」ということはまるわかりだ。スマナサーラ長老も言うでしょ?「私が言うのは良いんです。あなたたちが言うのはダメです。わかってるわけじゃないんだから。」

 他にも、スマナサーラ長老の言動を真似て、人を攻撃している人もたまに見かける。

 

 名古屋の法話会でのこと。その日はスマナサーラ節全開で、私は嬉しくなっていた。「もっとやれ、もっとやれ」と興奮していた。しかし冥想会の最後、長老はおっしゃる。「今日は調子が出て、言いすぎてしまいました。すみませんでした」。私は「ぽかーん」だ。

 タイの、おそらく皆さんも名前を知っているほどのお坊様で、誰の発言かは忘れてしまったが、「(私でも)法話では気が大きくなる」というのがあった。これを見た時「え!?」と思った。

 

 スマナサーラ長老も、そのタイのお坊様も、間違いなく腕がある。しかし、それでも、そういうことがあるのだ。

 F1ドライバーの真似をして我々が運転すると、即死。

 ああ見えて、お坊様方はすさまじい量の物事(法)を処理しながらしゃべってるんですよ。F1ドライバーが見れば、「こいつどのくらいの腕だ」ってすぐわかるでしょ? 

 ところで私は、この私に無常・苦・無我を説明してくれる人を募集しています。勿論、本気で知りたいとは思ってるんですよ。


 結局世俗諦、施設を超えてものを観ると真理が見えますよ、というのがヴィパッサナー冥想だ。確かにこの原理を超える冥想というのは、私は知らない。