さくらぎ瀞がわかる範囲の(スリランカの)テーラワーダの教え

スダンマ長老の弟子(在家)がつぶやいてみる。(只今休止中です)

アビダンマ(略)の読書感想文14

 いつものようにこの2冊にお世話になります。


・アビダンマッタサンガハ 南方仏教哲学教義概説
 監修 水野弘元、訳注 ウ・ウェープッラ、戸田忠
 アビダンマッタサンガハ刊行会


・アビダンマ基礎講座用テキスト
 ウ・コーサッラ西澤


 48頁。

 

 雑心所6。

 

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尋 所縁を思惟し、相応法を対象に向かわせること。
伺 所縁を伺察(細かく思惟)すること。

 

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 尋伺については以前書いたが、

sakuragi-theravada.hatenablog.jp

ここに書いたことがあながち間違いとはいえない。が、唯一の定義が「言葉を使う思考、言葉を使わない思考」としてしまうと問題になるだろう。

 結局、尋は普通の思考、伺は細かい思考、ということでいいだろうか。ここで尋は荒い思考、伺は細かい思考、とするとまた問題になるような気がする。受け取り手側の問題、と言ってしまえばそれまでだが。

 

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精進 努力すること。

 

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 まあそうだわなあ。私などは「努力とはなんぞや」と考えてしまうが、これは世間一般に言われる努力で問題ない、という判断だろう。精進についても上のリンクに書いた。

 

 問題は、ここだ。

 

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意欲 所縁を欲求する性質を特相とし所縁を追い求める作用をもつ。即ち所縁に対して、見たい、聞きたい、嗅ぎたい、味わいたい、触れたい、知りたいと思うことが意欲である。しかし、このように所縁を求めはしても、この意欲には貪のような執着や粘りが伴っていない。智慧や涅槃を求めたり、或いは又社会のために利を図るのは、この意欲である。

 

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 出典はabhidhammattha-vibhāvanīと明記されている。これが、テーラワーダに於ける意欲chandaの定義だ。

 よく質問で「涅槃を目指そうとするのも欲ではないですか」というのがある。まあこれも仕方がないことではある。単純に「欲とは自分の方に引っ張ってこようとすること」と説明されたりするので、ではテーラワーダで目指せ、と言われているものを手に入れよう(?)とすることも欲ではないか、と考えるのは当然のことだ。

 これを簡単に「そうではないですよ」という時には、単純に「善いことに対しては「欲」とは言わないんです」という言い方をする。

 

 名古屋でスマナサーラ長老が言っていた。「なんとしてでも稼ぐぞ!というのは欲です。しかし、例えばどこかの貧しい国に学校を作るために何としてでも稼ぐぞ!というのは善いことです。」と。私はその違いがよくわからなかった。屁理屈好きな私は、「学校を作るために人に迷惑かけ放題でも稼ぎまくるのは良いのか?」と思ってしまうからだ。現にテーラワーダ関係でも、仏教のために活動しているのは良いことなのだろうが、明らかに人に迷惑かけてるだろう、という人をちらほらと見かける。ダン・アリエリーの実験だったか、他の脳学者の方も言っていたような気がするが、「自分は良いことをしている(実際確かに良いことはしている)」人の方が、悪事を働きやすい、という話があった。テーラワーダ的に言うと、慢が出てきてしまう場面だ。ちなみにスマナサーラ長老はこうも言っていた。「比丘の方が地獄に落ちやすい」とも。知識、能力のある人の方が社会に対して良い影響も与えやすいが、悪い影響を与える度合いも大きい。

 

 さて話は意欲に戻って、「この意欲には貪のような執着や粘りが伴っていない」ということだ。依存にはならない、ということだろう。依存になっていたらちょっとやばい、ということだ。世の中的には例え良いことだとされていたとしても、もし依存しているようなら、それは意欲ではなくて欲、貪になってしまっているのかも知れない。ここら辺は本当に自分の心を見ていかないと分からないので(暫くすると周りに悪影響が出ている、とはたから見てもわかるかも知れないが)、とにかく自分の心に気を付けてください、とテーラワーダが口を酸っぱくして言う理由はここにある。お釈迦さまならともかく、人の心など他人には正確にはわからない。またやっかいなことに、自分の心は自分の心に嘘をつく。これはmusāvādaにはならないが(身口意の口、語の行為ではないしね)、修行を進めていく上で必ずぶつかる壁だ。このこともあって、できれば近くに信頼できる(厳しい)師匠がいた方が良い。

 


 不善心所14。

 

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痴 所縁そのものに対して無知であること。

 

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 無関心が無智、無知、と言われるのは、だからだ。このブログで何度も書いているが、テーラワーダのプロであるお坊様は、理由があってそういう言動をするのだが、テーラワーダに対して、またはテーラワーダのお坊様に対して無知、無関心であるから素人が勝手なことを言う、また、問題を起こす。そんなことにならないように少しでも助けになるかと思って私もこのブログを始めたのだが、果たして役に立っているのだろうか…

 

 また以前にも書いた通り、捨、智慧がある人も無知の人と同じように見えることがある。分かりやすいものとしては、ある問題に対してアクションを何も起こさない場合。無知な人は無関心なので、アクションを起こさない。智慧のある人は、その問題に関わっても解決できるわけではない、または自分の身が危うくなる、そういう場合にはアクションを起こさない。

 

 正直に言うと、私にも「こうすれば解決するのになあ」と思うこともある。大して智慧があるわけでもないので、勿論頻繁にではない。しかし、解決法を知っていたところで、どうにもならないこともある。というか、世の中はどうにもならないことだらけだ。まず、当事者に解決法を言ったところで、聞いてもらえない。また、答えを言って聞き入れてくれない、つまりどうにもならないのだから、その行き着く先は「答え以外」だ。それだけならまだしも、余計なことを言った、ということで私が問題に巻き込まれてしまう。具体的に言うと、攻撃に遭うようになる。

 

 もっと智慧を持った人は、そこで上手く立ち回るなり、タイミングを見計らってポンとうまくヒントを出したりして良い方向に持って行ったりするが、そんなことは私にはできない。わかっていただきたいのは、解決法を知ることよりも、その解決法を実行することの方がはるかに難しい、ということだ。

 

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貪 世間の所縁に対して貪ること。

 

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 先ほどの意欲に対して見事に対応させた簡潔な説明(←ちょっと嫌味)。もう少し説明してくれよ…

 まあそこはもう貪根心で説明してあげましたからいいですよね、ということなのだろう。

 

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見 邪に見ること。

 

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sakuragi-theravada.hatenablog.jp

 というわけで、結局「見」とは、悪見、邪見のことだ。

 

 これを、「考え方、意見というのはすべて邪見、悪見なのだ」とは取らないでほしい。見diṭṭhiというと、結局は悪見、邪見のことを指すよ、というだけのことだということをぜひ理解していただきたい。

 

 見、邪見、悪見が無くなるのは預流果になってから。となると、預流果になるまでの見、意見、考え方、ものの見方というのはすべて悪見、邪見ですよ、と取りたくなるかもしれないが、それまでがすべて邪見だとすると、八正道の実践のしようがない。まあ預流果になるまではなにをしてもいくらか邪見の要素がどこかにありますよ、とも言えるかも知れないが、まあそこまで言い出すと今度はtadaṃgappahānaがどうとか、ややこしい話になる。そこら辺までは知らない。

 

fujisugatavihara.blogspot.com

 これはよく言われる慈悲の冥想の11の効用についての、スダンマ長老の大変素晴らしい法話だ。是非ご一読いただきたい。

 

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嫉 他人の栄誉や利得などを妬むこと。

 

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 まあこれがほんとうにやっかいだ。私だって人のことを言えたもんではないが、世の中にはまるで正しいことを言っているかのようで実はこの嫉によるもの、と私が思うものも少なくない。ただの嫉妬なら、まあ本人の問題だしそこまで大きなことにはならないが、影響力のある人が「まるで正しいことを言っているかのように」意見を言い出すと危ない。また先ほども書いたように、本人も正しいことを言っていると思い込んでいたりするからより厄介だ。

 我々ができることとしては、影響力がある人が何かを言ったしても、自分で冷静に判断すること、しかない。そのためには、どうしても智慧が必要だ。アビダンマッタサンガハは、この智慧の育成に実に役に立つ。もう少し世の中で興味を持たれても良い分野ではないかなあ、とも思うのだが、まあ仕方がない、そういう私だって最近まで読めるとは思っていなかったのだから(笑)。

 

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慳 自分の利得などを慳むこと。

 

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 アビダンマでは、慳macchariyaは、怒り、瞋のグループだ。「自分の利得などを慳むこと」。例えば、自分がある外国語がしゃべれる。日本でその国の人が今ここにいる。しかし通訳してあげない、とか。自分は能力があるのに、そこで能力を披露したところで差支えがない場面であるのに(確かに差支えのある場面、というのも世の中にはある)、能力を人のために活用するのをおしむ。これは瞋のグループだ、というのはわかりやすい。

 しかし、物に於いてのケチは、欲だ。スダンマ長老も言っていた。「ケチは欲です」と。

 その欲があったうえでケチる、拒否するから瞋、ともとれるが、まあアビダンマでは慳は瞋のグループですよ、と覚えておけばいいだろう。自分にあるものを出さない、拒否する、ということで瞋。そこにクローズアップしているのかも知れない。ここら辺はわからない。

 

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悪作 悪行を作した、善行を作さなかった、と後悔すること。

 

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 もう何度も聞いたことがあると思うが、テーラワーダでは「私は悪いことをした」と後悔することは、悪行為だ。最も良いことは、悪いことをしたら「私は悪いことをしました。もうしないことを決意する」ことだが、そうでなかったら、きれいさっぱり忘れてしまった方が、実は良い。なぜかというと、自分がそんなことをしていると、人の悪いこともきれいさっぱり忘れてしまうからだ。それで自分も悩むこともなくなるし、悪いことをした人に悪い影響を与えることもなくなる。

 私なんかはぱーぷりんなので、このタイプだ。おかげであまり反省しないのだが…

 

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疑 因果業報や、三宝などに対して心が迷い、決定しないこと。

 

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 痴根心疑相応。疑という心所、ここでしか出てこない。

 

 前にも書いたように、痴、つまりテーラワーダで言う無知とは、善因善果悪因悪果を信じないこと、三宝に対する信が無いことを言う。因果業報や、三宝に対しての確信、としてもいいが、それは結局信saddhāのことだろう。疑は預流果になると無くなるので、預流果になるとまごうことなきテーラワーダ仏教徒だ、ということになる。

 

 別に仏教徒でなくても原理上真理を観れば預流果にはなるのだが、結局のところお釈迦さまも最後には仏教しか真理を説いていない、と言ってしまった。

 

 現代であっても、仏教徒でない人が預流果になれば「ああ、お釈迦様の言っていることは正しいですねえ」となってしまうわけだが、預流果の生まれ変わりならともかく(この時代の人間界にいるかどうかは全く知らないが)、仏教を知らずに預流果にまでなってしまう人がいるのかは甚だ疑問だ。そもそもそこまでの徳のある人なら、それ以前にテーラワーダに出会ってしまうに違いない。それを無理やりにでも避ける意味がわからない。

 「私は、お釈迦様の滅後だいぶ経ってから人間界に生まれ、そこにはテーラワーダの教えは残っているが私は「テーラワーダを知らなくても預流果に悟ることができる」と人々に実証するために、なんとしててもテーラワーダとの縁は付けずに預流果に悟る」と誓願すればできるのだろうか。そんな誓願をしたところで、そこまでの力を持つのだろうか。わからない…

 


 全然別の話題だが。

 

 私は、暴動の後というのはあまり見たことがなかった。

youtu.be

 正直に思ったことは、「ひどいなぁ」だった。

 

 しかし、

youtu.be こちらを見ると、どちらにも言い分はあるのだなあ、と反省した。

 

 私は状況も知らない。ニュースで追っているわけでもない。当然、解決法がわかるわけでもない。よって、智慧があるわけでもない。しかしこの動画によって、またひとつ私の世界は広がったような気がする。