さくらぎ瀞がわかる範囲の(スリランカの)テーラワーダの教え

スダンマ長老の弟子(在家)がつぶやいてみる。(只今休止中です)

アビダンマ(略)の読書感想文9

 いつものようにこの2冊にお世話になります。


・アビダンマッタサンガハ 南方仏教哲学教義概説
 監修 水野弘元、訳注 ウ・ウェープッラ、戸田忠
 アビダンマッタサンガハ刊行会


・アビダンマ基礎講座用テキスト
 ウ・コーサッラ西澤


 33頁。

 色界心15。みんな大好き五禅支に対応させた数の心があるよ、ということですな。

 五禅支の関係で、「経典では第四禅定、アビダンマでは第五禅定」なんて言い方をする。確かに禅支で分析してしまうと、四つにしてしまうのはなんだか気持ち悪い。ちなみに四つにするときは尋伺のものをまとめちゃうんだっけ?自信がない…。喜楽だっけ??

 

 五禅支とは、尋・伺・喜・楽・一境性(じんしきらくいっきょうしょう)。これはよく出てくるので、覚えておいて損はない。

 後で出てくるかもしれないので説明が間違っているかも知れないが、尋というのは言葉のある思考、伺は言葉のない思考(とスマナサーラ長老の本に書いてあったような気がする)、喜楽はともに楽しいとかsomanassaとかだが、では喜と楽はどう違うのか、というと結局喜がなくなって楽しかなくなる第四禅定に達しないとその違いは正確にわからないらしい。

 

 尋vitakka、伺vicāra、喜pīti、楽sukha、一境性ekaggatā。パーリ語でわかる通り、喜倶somanassasahagataの喜とは違う。sukhasahagataは同じだが、やはり意味が違うのはわかっていただけるだろう。同じだとなってしまうと、なぜ身識ではsukhaだけなのだ?喜somanassaは感じないのか?とか、めんどくさい話になってしまう。もしかしたらそこに深遠な世界が広がっているのかも知れないが、ここでは単純にdukkhasahagata苦倶に対して楽倶なのだ、としておこう。


 さて、ここまで読んでいただければもうおわかりだろう。明らかに、私の分かるところでは雄弁(笑)に語るが、分からないところはさらっと飛ばす。まあしょうがない、分からないところをしゃべって後で恥をかくのは嫌だ。


 34頁。

 五禅支と五禅定との関係が分かりやすく表にしてくれてある。第五禅定は一境性だけでなく、突然「捨」が出てくるが、気にしてはならない。第五禅定になるともう気持ちいい感覚は無くなるよ、ということが言いたいだけだ。前に書いたように、色界以上では楽倶より捨倶の方が力が強くなる。


 同じように、色界異熟心、色界唯作心とある。ということは、これまた前に書いた、在家でも阿羅漢には悟れるが阿羅漢になったら一週間で涅槃に入る、というのは恐らく人間界でのみ適用されるだろう、ということがわかる。色界には在家しかいないからね。

 アビダンマのことだから、その一週間の分析のためにこれだけのことを書いている、という可能性がないでもないが、勉強していると、そんな例外的な一週間のためにここまで暗記しなきゃいかんか?という気分にもなる。というわけで、在家阿羅漢一週間寿命説は人間界にのみ適用、ということでこのブログの結論としたい。


 尋と伺。言葉のある思考と言葉のない思考。この順番でもわかる通り、言葉のある思考は言葉のない思考よりも荒い。だからヴィパッサナー冥想にラベリングを用いるのか用いないのか、

sakuragi-theravada.hatenablog.jp

そこに対応しているのだ、と私は思い込んでいた。しかしここにも書いた通り、伝統的には第五禅定にも言葉を使うし、なんと無色界禅定にも言葉を使う。だからこのラベリングを用いるか用いないかに尋と伺を当てはめることには問題があることが発覚。この話は忘れよう(笑)。


 35頁。

 

引用引用引用引用引用引用引用引用引用

 

〈尋などの5心所を禅という理由〉この色界心には、触を初めとする35心所があるが、その中、尋などの5心所には所縁をじっと観察する、至心観察の作用(upanijjhāna-kicca)、及び昏沈睡眠などの対立する蓋を、あたかも火がものを燃やし尽くすように滅し去る、焼尽の作用(jhāpana-kicca)があるので、これら5心所を禅(jhāna)と名付けるのである。

 

引用ここまで引用ここまで引用ここまで

 

 いやいや、なぜ「禅」と名付けるのかまったくわかりません。わたしがバカなだけだろうか…

 

 まあいいや。ここでもまた、今まで出てきていない「心所」という言葉が出てくる。こういったことはこれからも当たり前に出てくるので、気にしてはいけない。

 

 つまり、至心観察の作用と蓋を燃やし尽くすのですな。あれ、違うの?

 

 という感じで、まったくわからない人には、正直日本語も親切ではない。まあこれはしょうがないかもしれない。仏教もテーラワーダも知らない人が、いきなりこんな本は読まない。この本を読む時点で、かなりの知識がある人を前提としている。

 そしてこれがやっかいなことに、テーラワーダの特徴でもある。知らない人に親切に教えてあげない。「あんたは知らないかも知れないけど、私は知っていることを教えてあげました。あとは知りません。自分で調べるなりしなさい。」という態度だ。

 で、これが日本だと、資料がない。大乗仏教の人が書いたものは大変参考にはなるのだが、前にも書いた通り、細かいところで微妙にニュアンスなどが変わってくる。私にはこれが大問題だ。信の方向が違ってくると、やはり言葉の受け取り方も違ってくる。その微妙な差が、なんとも気持ち悪い。

 

 これは正直師匠との会話もそうだ。スダンマ長老は大変日本語に堪能だ。読み書きは聞く話すよりは苦手だが、日常生活にはなんの問題もない。しかし、仏教の細かい所となると、「ん?どっちなんだ?」と思うことも多い。いや、もしかしたら「そんなの自分で調べろ。私はもう伝えることは伝えた。」のだと意図的にやっているのかも知れないが(笑)、結構困ることもある。

 

 いや、実はそうでもないことも多い。本当に後で「ああ、あそこで微妙な言い回しで言っていたのはこういう意味だったのか。」と知ることもある。あるのだが、そうでないこともある。いや、これも、現時点で「そうでないこともある」だけで、もう少し経ったら「こういう意味だったのか」と知るのだろうか。わからない…。


 と、テーラワーダというのは、なんとも深遠な世界というか、茫洋としている、というか。

 

 日本語には、ジャータカ全集がある。あれは凄い。大乗仏教の人たちが訳しているものだが、あまり教義的な話ではないので、訳についてもそんなに気にならない。

 三蔵の中にあるジャータカは、khuddakanikāya小部にある。小部という名前の通り、ここには偈しかのっていない。日本語のジャータカ全集は、その注釈書の全訳だ。あれはありがたい。

 ほんとうに大変ありがたいのだが、題名の改編などが行われているせいでせっかくミャンマーのお坊様に「このジャータカ」と指定されても、そのジャータカを調べるのにえらい苦労する。

 まあそれはいいとしよう。そこを除けば、大変ありがたい日本語訳だ。私は全く知らないのだが、ジャータカの注釈書の現代語訳、というのは英語にはあるようだが、テーラワーダの国々にもあるのだろうか?

 

 さてこのジャータカ全集、最初がいきなり難しい。何が難しいのか、って、大変宗教的な話だ、ということだ。これこそ、信がないと信じられない。正自覚者が28仏前の正自覚者の前で予言(授記)されたとか、我々にはどうにも確かめようがない。私が、信は「確信」ではない、というのはこういう理由だ。念のため申し上げておくが、勿論「確信」全否定、というわけでもない。


 で、ここに、精進について出てくる。精進とは、大洋の中にあって、どこにあるかわからない陸地、岸に向かってとにかく泳いでみること、とある。

 

 私はこれが大変苦手だ。正直ケチ(笑)なので、結果がどうなるかわからないとやる気にならない。この場合、陸地がどの方向か確実にわからないと私は泳ぎません、というクチだ。無駄なことはしたくない、という。しかしこんなことを言っていたら、早々に死んでしまう。どうせ後で死ぬかもしれないが、やるだけのことはやっておこう、というロマン(?)。

 

 効率化がすべて悪いわけではない。しかし、それがケチ方向に進んでしまうと、問題になる。これにも中道が重要だ。

 では中道は真ん中の道か、というと、これはその通りだ。しかし、その真ん中の道は、細く険しい。綱渡りの名人の、バランスのようだ。これを「中途半端な道」と言えるだろうか。綱渡り名人に、(その分野の)智慧がない、と言えるのだろうか。

 

 中道というのは、どちらでもない道。しかし、「どっちつかずの道」ではない。どちら「でもない」、というのは、実はとんでもなく広大な世界だ。

sakuragi-theravada.hatenablog.jp

 

 細く険しいが、そこは無限に深く、無限に広い。