次のステージへ
今日は日曜日だ。
しかし、朝起きたら、思いついてしまった。仕方がないので、書いてみる。
ここにもあるように、次のステージに進むには、それまで持っていたものを捨てなければならない。難しいし、私もできているとは言い難いのだが、実際その通りだ、と思う。
日本人でイギリスで勉強してきた作曲家が、テレビで言っていた。そこの教授は大変厳しい人で、学生が作曲した曲について、教授が何か突っ込んできたら「すべて言葉で答えろ」と言ってきたらしい。それまで感覚的に作曲した部分も多かったわけだから、まあこれが大変だったそうだ。作曲する時もそのことばかり考えて、つまり、いちいち理由を考えなければならなくなった。結果勿論ノイローゼ気味になったそうだが、次第に自分で(作曲の)原因と結果について考えられるようになったそうだ。
そして、卒業の時。その教授が言ったそうだ。「今までのことはすべて忘れなさい」。その人も、そりゃあ衝撃だったそうだ。「なんじゃ、それ」と。
しかし、それから数年経った今、まだ言葉で考えてしまうところもあるが、だいぶ理由も考えずに「ぽっ」と思いついたことを作曲に反映することができるようになった、と喜んでいた。
最初からすべて思い付きでやっていると、そりゃやっぱり危ない。正しいこともあるかも知れないが、危険なこともあるかも知れない。この判別ができない。だからまず、基礎を叩き込まれたのだ。そしてそれが身体の中に入ってしまったら、こんどは「勘」に頼れ、と。身体の中に基礎が染み込んでいるのだから、そこから出てきた「ぽっ」は、基礎の上に出てきたものだ。
その上で。
ウィジタナンダ長老の冥想会、法話会での話。
あるお経。お釈迦様は、こう言う。「赤ちゃんの時に戻りなさい」。
どの動物でも、赤ちゃんはかわいい。なぜかというと、心がきれいだからだ。だからといって、別に「悟っている」というわけではない。
ここにお客さんが来るので、心が汚れてしまう。だからそのお客さんには気をつけなさいよ、ということだ。一切拒否も無理だし、好んで入れてみたらとんでもない人だったりする。ここを捨で観察しよう、というわけだ。
赤ちゃんの時は、生まれた業そのままだ。それもお客さんに合わせなきゃ、と思っていろいろと変えてしまう。ここは中道が必要だ。我を通し切るのも問題だし、お客さんに合わせまくるのも問題だ。バランス、ともいえるし、智慧で観なければわからない、とも言える。考えてみればアビダンマッタサンガハで捨は、中捨だ。
一度、まず赤ちゃんの状態に心を戻しなさい、ということだ。
しかし、これは難しい。
お経では、お釈迦さまが説法なさると大概比丘たちは喜ぶ。私もそういうお経しか知らなかった。
しかし、ここでは違う。比丘たちは「喜ばなかった」。あまりに難しくて、理解できなかった。もちろん、私もだ(笑)。
これは、他のお経では喜んで理解して悟りを開いた比丘たちがいらっしゃるのに、このお経ではそういう方はいなかった、つまり、それだけ極端に難しい話だ、ということだ。これは大変珍しい。お釈迦様の失敗とも取られかねない。しかし、言わなければならなかったのだ。残さなければならなかったのだ。
「赤ちゃんに戻れ」というのは、今までのものをすべて捨てなさい、ということではない。しかし、今までのものをすべて捨てなさい、ということだ(笑)。