さくらぎ瀞がわかる範囲の(スリランカの)テーラワーダの教え

スダンマ長老の弟子(在家)がつぶやいてみる。(只今休止中です)

アビダンマ(略)の読書感想文11

 今日もこの2冊にお世話になります。


・アビダンマッタサンガハ 南方仏教哲学教義概説
 監修 水野弘元、訳注 ウ・ウェープッラ、戸田忠
 アビダンマッタサンガハ刊行会


・アビダンマ基礎講座用テキスト
 ウ・コーサッラ西澤


 西澤先生の本の12頁。

 

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空無辺処善心

色界五禅定を自在した修行者はさらに高い禅定を得るため、又は無色界に転生するために第五禅の瞑想対象である10遍から空遍を除いた遍によって第五禅定に入定する。その後、今まで集中していた遍を無視して取り除くと今まで遍があった場所が無辺の空間となり、その無辺の空間に意識を向け「空は無辺 ākāsa ananto...」と集中して達する禅定が第一無色界禅である。

 

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 無色界になると俄然元気になる(笑)。どっかで縁があったのだろうか。

 

 今までさんざん言ってきた「ではない」、この原理。「今まで集中していた遍を無視して取り除くと今まで遍があった場所が無辺の空間となり」

 

 無色第二禅定からも同じようなものなのでここでは引用は割愛。

sakuragi-theravada.hatenablog.jp

 ここにも書いたように、空のkasiṇaは除外される意味がわかっていただけるだろう。パーリ語でやると、空遍は「ākāsa, ākāsa, ākāsa...」だ。これを「ākāsa ananto」となると、ただ空が無辺になるだけだ。完全に似て非なるもの。そもそも空を色として認識するのも確かに難しい気がする。その空を取り除いて今まで空があった場所に無辺の空間。もうわけがわからない(笑)。一度無色界禅定を習得したら挑戦してみてもいい気がするが、挑戦する意味があるのかもわからない。アビダンマの定義がほんとうかどうかを証明する、くらいか。私としては性格的に「いや、あれは嘘だった。できないこともないよ」と言いたいのだが。

 


 いつもの方の本の38頁。

 

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色界第五禅の所縁となる地遍などの施設所縁を所縁とせず、それを超えることによって空無辺処が得られる。

 

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 これは誤解を招く書き方だ。これではまるで施設所縁を超越すると無色界禅定が得られるかのようだ。それは、ヴィパッサナーという。

sakuragi-theravada.hatenablog.jp

 これはここに書いた。

 

 無色界禅定も、集中する対象はあくまで施設だ。でないと、無色の対象は真理、となってしまう。そもそも施設が対象でないと、サマタにならない。固定していないものを相手に、どう集中するんですか。

 

 この後にも

 

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無色界禅を所縁の超越禅(ārammaṇātikkama-jhāna)という

 

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 とあるが、これはその前にも書いてある通り、まず色界禅定で対象とした所縁を超えることによって、そのあとは無色界禅定第一を、第二を、第三を、それぞれ超えることによって新たな禅定に達するので超越禅なのであって、別に施設を超越しているわけではない。色界禅定は、まあレベルは超越していく、ともいえるかもしれないが、どんどん集中の度合いを増すことによって次の段階へとすすんでいく。無色界禅定は対象自体が変わっていく。そして、順番も一つ飛びはできず、執着することなくひとつひとつ超えていかなければならない。だから「超越禅」。

 本を作った時の事情は全く分からないので勝手な私の思い込みだが、ここは日本語で関わっている大乗仏教の人たちにウェープッラ長老が最大限配慮したのか、とも思う。ネットで見ても、無色界についてはかなり境涯の高い印象だ。前にも書いた通り、テーラワーダでは無色の生まれは修行のしようがない悪い生まれとされる。だから「ただのサマタ」とは言えなかったのかも知れない。まったくわからないが。

 というわけで、無色界禅定といえども、ただのサマタには変わりない。

 


 39頁。

 

 出世間心8、そのうち道心4と果心4。禅定と対応させると8x5で40になる、ということだ。

 


 43頁。

 

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道を求めて観を修する瑜伽者には、乾観者(sukkha-vipassaka)と、禅を得た者(jhāna-lābhī)との2種がある。乾観者とは、止の修習を経ないで初めから観のみを修習する人である。彼は観を行う時に、色などの無常・苦・無我相を観じる。この場合には、初禅の預流道のみが得られる。

 

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 出世間心が禅と対応させるので、第一禅定からしかないからといって預流果になるにはサマタをやらなければならないのか、というとそうではない、とここに書いてある。

 これは向き不向きもあるのかもしれない。アリヤダンマ長老がマハーシ長老のところに行った時に「誓願はなんですか」と聞かれ、「ではサマタをやって下さい」と言われた、という逸話がある。生まれによっても、変わるのかも知れない。

 生まれによって、ヴィパッサナーだけでは預流果に至れない、というのもあるのかも知れない。まあとにかく、サマタをやってもよし、ヴィパッサナーだけでもよし、冥想の方法でとやかく言っても意味はないよね、それぞれ好きな冥想法でやればいいじゃん、しかし冥想の方法は指導者に必ず従ってね、ということだ。


 そして、ここでもヴィパッサナーとは無常・苦・無我を観ることだ、と書いてある。皆さんが大好きな、無常・苦・無我の「施設」を見ることではない。あんなことを議論してもまったく意味がない。冥想すればどうせ観えるのだから。

 ここにうんこがあります、と議論してなんになろう。そこにうんこがあるのならある、ないのならない。そこにないのに「いや、うんこがあります。臭いです。」とか言ってもないものはない。そこにあるのに「いや、うんこがありません。臭くありません。」とか嘘を言っていてもしょうがない。うんこがあるのならある、ないのならない。以上。それだけの話だ。

 

 当然のこと、冥想が進んでくると悟っていなくても、何か感じることはある。だから、変なことを言っている人はすぐにわかる。なにしろ自分で体験しているのだから。まあしかし結局のところ、無常・苦・無我は悟らないと完全にはわからない。

  蛇足だが、そこに至る智慧についても同じだ。名色分離智について語って何になろう。体験すればどうせわかる。その道標として示しているもの以外、見る必要はない。

 

 だから、指導者を選ぶのは大切だ。変なのに引っかかると大変なことになる。人のことなんてどうでもいいから、自分のことだけ考えて、冥想指導者は選ぶことをお勧めする。