さくらぎ瀞がわかる範囲の(スリランカの)テーラワーダの教え

スダンマ長老の弟子(在家)がつぶやいてみる。(只今休止中です)

緊張、長老

 今日は土曜日だ。

 

 現時点では、ブログのタイトルのところに「目指せ平日22時up」と書いてある。無理したってどうせ続かないんじゃね、という判断で書いたものだが、昨日と打って変わってなぜか今日は思いついてしまったので、書いてみる。


 学生時代の友人の話だ。本番前にあまりに緊張するので師匠に相談したら、「緊張するのはお客さんに対する礼儀」と言われたそうだ。感動した。

 往年の名テノールマリオ・デル・モナコ

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舞台に出ているととてもそうは思えないが、本番前の舞台裏ではとんでもなく緊張していて、ひどいときには奥さんに舞台に蹴り出されたそうだ。しかし一度舞台に出ると、このようにすごい歌唱をする。

 名指揮者、カルロス・クライバー

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晩年は極端にレパートリーを絞り、キャンセルも多かったため生きているうちから幻の指揮者と呼ばれた。これを見てもとてもそうは見えないが、彼も舞台裏ではとても怖がっていたそうで、親友サバリッシュに押し出されることも多かったという。

 このクライバー、長い曲でも同じ曲ならいつもほとんど同じ動きをする。マニアはフリを全部覚えている。

 指揮者には、二種類ある。いつも同じ演奏を求める人と、いつも違う演奏を求める人。私も後者のタイプで、中には練習では解釈をすり合わせておきながら、本番で「にやっ」としたかと思ったら練習と全然違うことをする指揮者もいる。

 彼のエピソードで、練習の時、「この曲は皆さんの方がよく知っているでしょうから、練習しなくて良いでしょう」と言って練習せず、ぶっつけ本番でやった、ということがある。こうなってくると、指揮者が本番で何をしだすかわからないから、まあ演奏者としては注意深く指揮者を見ざるを得なくなる。まあ結局「指揮見ろよ、コラ」って話なんだが、こういったことはあまりやりすぎると嫌われるので気を付けよう。


 どうでもいい情報だが、私はトイレが近い。緊張すると何度もトイレに行くタイプだ。

 名古屋の法話会の時、スマナサーラ長老の到着が少し遅れていた。法話を少しでも聞き逃したくないので、できる限り寸前にトイレに行っておきたくて、何度目かに行った時。

 名古屋の法話会は、スポーツ施設というか、総合施設というか、かなり大きい所の和室で行われていた。そこのトイレも、かなり大きい。そこに、スマナサーラ長老がいた。

 出家は、戒律によって座って小便もすることが決められているが、スマナサーラ長老は立ってしていた。私はこういうどうでもいいことが気になる質なのでいろいろなお坊様を見ているが、立って小便をするお坊様は珍しい。しかし、この戒律は別に罰則があるわけでもなく、比丘にとってなんとしてでも守らなければいけない戒律というわけでもないので、ここは別に問題ない。

 話がそれた。その大きいトイレに、スマナサーラ長老だけ。私は入った時に「うっ」と思った。逃げようかと思った(笑)。女性の方にはわからないと思うが、男性のトイレというのは、それはそれで独特な空間だ。あそこに知らない人と二人だけ、というのも独特な空気感があるが、知っている人と二人だけ、というのもまた独特な空気感があるものだ。

 まあしょうがないので私もトイレを済まそうとしたら、どうにも空気がおかしい。私はこれを書こうかどうか迷ったのだが、今日思いついてしまったのだから、書いてしまおうと思う。勿論、今まで誰にも言ったこともない。

 はたから見ても「明らかに」、スマナサーラ長老がド緊張なさっていた。

 私はびっくりした。あのスマナサーラ長老が、法話の前に緊張なさるなんて。しかも、尋常な緊張具合ではない。黙ってトイレしているだけなのに、明らかに私にもわかるくらいの度合いだ。

 長老のことだから、ちょちょいのちょいで法話しているのだとばかり思っていたが、意外な場面に遭遇してしまった。

 しかし、東京の法話会だっただろうか、長老が「私だって人間なんですけど」と、半ギレというか、寂しそうにというか言っていたことがあったが、私はまだこの言葉を信じていない(笑)。


 その道のエキスパートほど、その世界を知っているのだから、怖さを知っている。知れば知るほど、「私は知らない」という絶望感に苛まれる。

sakuragi-theravada.hatenablog.jp

ここの人たちのように、自分たちの世界しか知らない人は、逆に恐れを知らない。自分が見ている世界がすべて正しいと思っているからだ。逆にこういう人たちは、もしかしたら幸せなのかもしれない。

 

 スマナサーラ長老が名古屋の法話会でキレていた。「私だって知らないことだらけですよ!」と。その時私は「またまたぁ」と思っていたが、今なら少しだけ、わかるような気がする。

長老

 お坊様のことを「長老」と呼ぶ。thero。比丘になって十年だったか。年長者という意味で、長老。

 この「ちょうろう」という響き、coro、パーリ語ではなんと泥棒のことだ。coro aṅglimālo nāma hoti luddo lohitapāṇī hatapahate niviṭṭho adayāpanno pāṇabhūtesuのcoroだ。

 スリランカ人も日本人も参加した雨安居の法話会で、その話題になった。その時雨安居に入られていたシーラワンサ長老が、「マハーチョーロー。うぷぷ」となった。スリランカ人も笑っていた。だから、「チョーロー」という響きは、テーラワーダ文化圏の人に対しては、ちょっとまずい。スダンマ長老はこの時「私は「長老」でいいです」と言っていた。

 だから、日本では長老であったり、セヤドーであったり、禅師であったり師であったり「さん」であったり、呼び方も統一されていない。西洋では、パーリ語のbhanteをそのまま使い、「バンテー」だ。バンテー・グナラタナ、よくご存じだと思う。尊師、先生、そんな意味だ。経典で、比丘たちがお釈迦様に対してbhanteというのをご存じだろう。出家は師匠に対してbhante、他は許されない。

 私はスリランカのお寺では「ハムドゥルヲ」で通している。シンハラ語で尊師、先生という意味だ。スリランカ人も皆お坊様に対してこう呼んでいる。長老だろうが沙弥だろうがこれなら関係がない。

 ロク・ハムドゥルヲはご住職、ナーヤカ・ハムドゥルヲは、その地区の主任、主管、ま、偉いお坊様、パンディタ・ハムドゥルヲは

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ここに書いた、paṇḍitだ。パーリ語サンスクリット語シンハラ語の試験三つを一気に一発合格だとroyal paṇḍit。ポディ・ハムドゥルヲは、小僧?

 在家が出家に呼ばれると「アピ・ハムドゥルヲ」と答える。our teacherだろうか。お釈迦様に対しても、myブッダ、なのだそうだ。

 私などはお釈迦様に対して「私の」などとは恐れ多い、と思ってしまうのだが、それくらい近くにお釈迦様がいらっしゃる。お釈迦様に対してへりくだるのは良いことだが、いえいえ私なんてとんでもないどうぞどうぞと遠くにいるのは、良くないことらしい。

 がっつり、お釈迦様の近くに行こう!