アビダンマッタサンガハの読書感想文を書いてみようと思う
もうネタがなくなった(笑)。
今までは、キーボードを前にしたらつるつる出てきた。今日は出てこない。
きっとあれだ、ネタ切れってやつだ。なので、人の本を読んで、ただただ読書感想文を書いていこうと思う。
ゆめゆめ間違っていただきたくはないのだが、これはアビダンマッタサンガハの解説ではない。ただ私の無知を晒そう、という試みである。別に先を読んでから書いているわけではないので、「わからん」とか言っていても、後でわかることもあるかも知れない。そういった、誰も興味のない、私の成長の記録でもある。
というわけで、引用させていただくのは
・アビダンマッタサンガハ 南方仏教哲学教義概説
監修 水野弘元、訳注 ウ・ウェープッラ、戸田忠
アビダンマッタサンガハ刊行会
・アビダンマ基礎講座用テキスト
ウ・コーサッラ西澤
の2冊だ。お世話になります。スマナサーラ長老の本は手元にないので、引用できない。「それと違う」というツッコミもなしでお願いできれば僥倖に存じます。
しつこいようだが、私の師匠であるスダンマ長老は、アビダンマを教えてくれない。このブログに書くことは、全責任が私にある。
「南方仏教~」の最初に、水野弘元による「アビダンマッタサンガハの解説」があるのだが、
sakuragi-theravada.hatenablog.jp
ここにも書いた通り、どうにも腹が立つ。腹が立つのだが、ではどこがどうとか、そこについて論理的に言い返せる知識を持ち合わせているわけでもないので、ここは、私の感想は「腹が立ちました。」で終わり。
本文については、注釈書、副注釈書等からの引用が示されているので、パーリ仏教的に間違いがない、という前提で話を進めていくことにさせていただきたいのですがよろしかったでしょうか。
さて19頁。
https://tipitaka.org/romn/cscd/abh07t.nrf0.xml
こちらでアビダンマッタサンガハのパーリ語全文が読める。このリンクはcittaparicchedoだけ。全てが読みたい方は
こちらから、tīkā(ま、副注釈書だ)、abhidhammapiṭaka(ṭīkā)、abhidhammatthasaṅgahoと進んでほしい。
こちらのサイトはṃだが、本の方はmの上点だ。これは古い書き方で、別にどちらでもいい。ṅも、なんかnにgを足したみたいな字を見たこともあるだろう。これも古い書き方だ。
パーリ語は文字を持たないので結局文字は何でもいいのだが、残念ながらカタカナだと子音の発音ができないし、そもそも子音も足りない。ついでに母音も足りない。
だからカタカナのルビでパーリ語の経文を読んで親しむのは大変良いことだが、正確な発音じゃないんだよ、ということは覚えておいていただきたい。
といっても、じゃあ正確な発音ってどうよ、となると、まあスリランカ発音ミャンマー発音タイ発音等でちがってくるわけだ。もともと文字も現地文字を使ってパーリ語は記述されている。しかし一応、ローマ字表記については統一されている。といっても、完璧に統一、というわけでもないので、多少の違いがあることに目くじらを立ててはいけない。
で、発音はやっぱり国によって違う。「ブッダン・サラナン・ガッチャーミ」というのは、スリランカ読みだ。ミャンマー読みは「ブッダン・タラナン・ゲッサーミ」。すまん、タイは知らない。
我々日本人がローマ字をそのまま読んで発音しやすいのは明らかにスリランカ読みなので、カタカナで書くときは大概それに準拠することが多いと思うが、別にこれも統一されているわけではないので、出身、修行された国等によって読み方は様々だ。が、一応古代マガダ語の発音に一番近いのは、言語的に近いシンハラ発音だとされている。
じゃあ今統一すればいいじゃん、と思うかもしれないが、それは最近テーラワーダを知ったばかりの日本だから言えることだ。それぞれのテーラワーダの国にはもうすでに何百年という伝統がある。書物も現地文字でのパーリ語や、膨大な量の経典を暗記しているお坊さん方に、「では今日からはローマ字表記、スリランカ発音でお願いします」というのは、「便利ですので、今日から世界中で英語だけ話してください」というのが無茶だというのはわかっていただけるだろうというくらい、無理のある話だ。教義は同じだが、それぞれの国のやり方も違う。ちなみにスリランカ内でも、宗派によって法要のやり方などは若干異なる。だからそれまではお坊さん同士宗派は知らないが、法要の時だけ必要になるので聞いてみて初めて知る、ということが多いそうだ。ちなみにスリランカの在家は、自分の寺のお坊さんが何派だとかはまずまったく知らない。日本と違って、どうでもいい話だからだ。スリランカ三宗派とか四宗派とかいうが、単純に言って出家式の場所が違う、ということだ。これもじゃあ統一しちゃえばいいじゃん、と(ループ)
違う国同士でも昔はパーリ語で会話していた、なんて話も聞くが、今では英語だそうだ。パーリ語で会話しているお坊様は見たことがない。そういうこともあるのだろうか。というか教義的に、聖典語であるパーリ語で日常会話していいんだろうか。わからない。
というわけで、19頁。
引用引用引用引用引用引用引用引用引用
敬礼 身・口・意の3種があり、その中、口の敬礼が最も効果的である。何故ならば身・意の敬礼はただ本人だけのものであるが、口の敬礼は本人と聞き手との二つの働きを伴うからである。
引用ここまで引用ここまで引用ここまで
意で敬礼(きょうらい)が本人だけ、というのはわかりやすい。しかしそれでは、この書き方だと身の礼拝(らいはい)も、見ている人にも働きかけるんじゃあねぇのかい?
と、これがテーラワーダ仏教のおもしろいところだ。
テーラワーダは分析主義者、とも言われる。パーリ語の用語は忘れた(汗)。やたら細かい人、という意味だ。え、違うの?
目は、ふさぐことができる。そらすこともできる。しかし、耳は常にオープンだ。その場にいる人に影響を与えざるを得ない度が違う、ということだ。というわけで、口でのnamo tassa bhagavato arahato sammāsambuddhassaが一番効果的だよ、ということだ。ここは経典を唱えることにも通じる。黙読よりも、心の中で繰り返すよりも、読経した方が効果的だよね、ということだ。
そもそも暗記するにも、やはり読経、声を出して読むしかないようだ。これは在家の人にも出家にも何人にも確認したのだが、「それしかない」と言われた。
読経というのは、慣れないと意外にきつい。大乗仏教のお坊様も、たいそう凄い喉をしている。終夜読経とかいってもテーラワーダは密教的にあまり一人のお坊様が連続で唱え続ける、ということがないのでそこまで強靭、というイメージもないのだが、アミタ・バンテーなどはものすごい大きい声が出る。どうしたらそういう風になるのか、練習なのかと在家の人に聞いたら「生まれだね」とさらっと言われてしまった。
というわけで、これからはこんな感じで、読書感想文をつづっていこうと思う。
お付き合いいただけたら幸いです。