さくらぎ瀞がわかる範囲の(スリランカの)テーラワーダの教え

スダンマ長老の弟子(在家)がつぶやいてみる。(只今休止中です)

アビダンマ(略)の読書感想文10

 またまたこの2冊にお世話になります。


・アビダンマッタサンガハ 南方仏教哲学教義概説
 監修 水野弘元、訳注 ウ・ウェープッラ、戸田忠
 アビダンマッタサンガハ刊行会


・アビダンマ基礎講座用テキスト
 ウ・コーサッラ西澤


 37頁。

 

 無色界心。無色界禅定についてはここに書いた。

sakuragi-theravada.hatenablog.jp

 

 無色界にも善心、異熟心、唯作心があるよね、ということだ。ここは別に問題ないだろう。ただそれだけだ。いや、現実に起これば凄い話だが(笑)。

 

 38頁。

 

引用引用引用引用引用引用引用引用引用

 

無色界ではそれぞれに、捨・一境性という二つの禅支に一定しているため

 

引用ここまで引用ここまで引用ここまで

 

 禅支というのは、禅(定)を支える要素なので「禅支」という。こういう所、実にうまく漢字とマッチングさせている。漢字文化に仏教を持ち込んだ時にはサンスクリットだったはずだから、サンスクリットから漢字に訳した人たちなのか、または日本独自なのかは私にはまったくわからないが、その人たちの情熱には本当に頭が下がる思いだ。

 訳なのだから、背景となる文化も違うし、すべてが訳せるわけではない。しかしその制限のある中で、よくもまあこうも漢字に変換したもんだと感心しきりなわけだが、残念ながらそれがすべてでもない。漢字になってしまったからならではの問題も起こる。例えば、漢字という表意文字が引き起こす問題だ。

 スリランカ人に、「karuṇāは、「悲しい」って書くんですよ」と言ったら、驚いていた。まあ当たり前だろう。

 

 日本人には、「慈悲」と書くから、まだ馴染みがあるかも知れない。しかし、その「悲」イメージはやはり「一緒になって泣いてあげる」だ。

 

悲 (仏教) - Wikipedia

 

 現時点でのwikipediaの「悲(仏教)」の項目にも、

 

「苦しみをともにする同感」

 

 とある。ネットで調べたくらいの知識だから間違っているかも知れないが、チベット仏教にも、地獄の生命の苦しみを感じる瞑想、というのがあるらしい。

 なぜこれが問題になっていないのかというと、厳しいことを言うが、誰も本気でそんなことをしていないからだ。

 前にも書いたように、まったくの無関心というのもどうかと思うので最初はそれでいいかもしれないが、本気で、例えば禅定に向けてやろうと思ったら、とんでもないことになってしまう。

 

 テーラワーダ仏教徒の立場として言おう。これだけは絶対にやってはいけない。本気でやったら、生まれるのは憂domanassaだ、というのはここまでのこのブログを読んでいただいた方にはわかっていただけるだろう。これは怒りだ。悲しみは怒りだ、というのはここからもわかる。

 そうではない。悲、karuṇā、抜苦で必要な姿勢というのは、捨だ。ちなみに慈悲喜捨の冥想で生まれるものは、慈はsomanassaとupekkhā、悲はupekkhā、喜はsomanassa、捨はupekkhā。念のため言うが、ここで言う喜はmuditāで、喜倶のsomanassaとは違うし、ややこしい話だが、慈悲喜捨の捨はupekkhā、捨倶upekkhāsahagataのupekkhāとは勿論違う。

 

 抜苦をするためには、苦を抜いてあげる人は、苦しんでいてはできない。一緒に苦しんでいても、何も解決しない。

 

 私にも経験がある。正直に白状しよう。テーラワーダのお坊様に相談したときに、最初の頃は「何を笑っているんだろう。真剣に聞いてくれてるんだろうか。」と思った。しかし今ならわかる。悩み相談を受ける方は、一緒に泥沼に引きずり込まれてはいけない。カウンセラーの方なども悩み相談を受けるうちにどんどん苦しくなっていく人がいたりするが、それはこういった理由からだ。智慧でしっかり自分を保っておかないと、いつの間にか引きずりおろされてしまっていたりする。私にはこんな実力は無いから、絶対に悩み相談など引き受けない。


 さてここまでの話で分かっていただけただろうが、この悲karuṇāとうのは、caritaが瞋性の人とは相性がいい。やはり人の苦しみを感じやすいからだ。だから、弱い人の立場に立って、権利拡大などに尽力している人たちも多い。一緒になって怒るのも、程度の問題もあるが、「なんとかしてあげたい」という気持ちから来るものだ。

 行き過ぎると、「どこかに差別はないか」とか「どこかに革命はないか」などと監視し始める人になり、更にひどくなると「私が助けるべき、世に虐げられている人はいないか」と探し始める。

 ネットの相談で、「私が助けてあげた人が自分より幸せになっているのを見ると、なんだかなあという気分になる。」というのを見たことがある。あれは慈悲ではない。自分より不幸な人を見て、安心したいだけだ。

 このように、善行為に偽装して出てくる悪の心をvañcaka dhammaという。これが本当にやっかいだ。自分では善行為だと思っているから、例え周りが気付いて指摘したところで、絶対に受け入れない。

 

 このvañcaka dhammaは、冥想しただけではなくならない。残念ながら、法話を聞くしか解決法が存在しない。しかし冥想が最高の善行為だと思っている人たちには、この声は届かない。

 

 間違っていただきたくないのは、冥想は最高の善行為であることはその通りだ、ということだ。だが、どうも皆さん、最高のことだけしていれば、その最高より下にあるものは軽視する傾向があるような気がしている。最高、というのは最上階にある展望台のようなものだ。基礎がしっかりしていなければ、いとも簡単に崩れてしまう。

 

 

 最後に。

 

 悩み相談で良い動画が上がっていた。

youtu.be

 1月9日までの限定公開だそうだ。

 

 ここのどこに、「一緒に苦しむ」という要素があるだろうか。