信saddhāについて
誤解のないように、まずこちらをご覧いただいてから、今日の話は読んでいただけたら嬉しい。
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だから、今日の話も、別に議論したいわけではない。あなたたちは間違っている、と指摘したいわけでもない。
ただ、どうせこのブログのアクセスは大したことないのだし、ここにたどり着いた、ということはなにかの因縁でいらしたのだと思うし、そういった方々にはテーラワーダの真実を伝えてもいいと思う。
しかしこれだけはお願いしたいのだが、このブログを用いて、「あんたら、信saddhāの意味を間違えてるよ」と攻撃することだけは、どうかやめていただきたい。それが本意なのではない。一定の段階に達した人に、テーラワーダ「中学」に入学するためには、どうしても乗り越えないといけない壁がある。
信saddhāについて。
これは西澤先生のブログでも以前議論になった時に意見させてもらったことがあったが、今となってはテーラワーダの環境として最大の難関として立ちはだかっている。
結論から言おう。テーラワーダで言う信saddhāは、「信仰」「信じる」ことだ。しかも、お釈迦様を信じること。正式な定義は、お釈迦様が最終解脱に至った、その悟りを信じること。
さあ、ここでアレルギーが出る人が大半だろう。しかし、もうすこし読み進んでいただきたい。
スマナサーラ長老は、「仏教は科学」とか、「信仰はいらない」とか、「信じる必要はない」という。自分で確かめ、体験すれば信じる必要はないでしょ?という論法だ。
「仏教は科学」というのは、以前書いた通り、テーラワーダで言う。実は「信仰は要らない」も、「信じる必要はない」も、言う。特におかしいことではない。真理だから、体験すれば、なにも信じる必要はない。事実だ。
しかし、信saddhāの説明については、嘘だ。はっきり言おう。方便だ。「確信」という言葉で信を説明するのは、預流果になると信仰が確信に変わるので、「嘘」とは言い切れないが、一般の言葉で説明すると、「拡大解釈」だ。
考えてもみてほしい。お釈迦様が最終解脱に至って真理を見たから、我々はお釈迦様の言葉、少なくとも皆さんはお釈迦様を信仰する(私にはまったくわからないが、もし阿羅漢であるとすればそれこそ信仰ではなく「確信」だが)スマナサーラ長老の言葉を信じている。ではわかりやすく挑発しよう。なぜ皆さんはスマナサーラ長老の言葉を信じるのか?スマナサーラ長老が言うことを、ほんとうにすべて体験しているのか?体験しもしないくせに、ただスマナサーラ長老の言うことを信じているのは、なぜですか?
それは、長老の言葉を聞いて、実践してみて、結果が出て、「この人の言っていることは間違っていない」と「信じている」からではないですか?
富士スガタ精舎の日常読誦経典の前書きにこうある。ちょっと長いが、ほとんどの方が持っていないと思うので、引用する。
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saddhā bījaṃ tapo vuṭṭhi paññā me yuga-naṅgalaṃ,
hiri īsā mano yottaṃ sati me phālapācanaṃ.
kasībhāradvāja-suttaṃ
「修行という雨水と智慧という鍬・鋤と、悪い行為を恥じるという鍬棒と心(意)という縄、気づき(念)という鋤先と突棒で、涅槃という田を耕すために「信」という種を植えてください。そうすれば、苦しみや悲しみのない最高の幸福である涅槃に達することができるでしょう。」
悟りを求める人は、最初に信(saddhā)を育てることが大切です。信のない人がたとえ法(dhamma)を勉強したとしても、法の味(dhamma-rasa)やその法の意味の味(attha-rasa)を真に味わうことは難しいのです。だから涅槃という最高の味を味わうためにはまず「信」の種を心に植えてください、とお釈迦様が教えられたのです。
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皆さんが言うように、自分で確かめて確信となるのならば、テーラワーダ的にその境地に至るには、阿羅漢になるしかない(正自覚者、とまではここでは言わなくて良いだろう)。それまでは、厳密に言うと「阿羅漢という境地があるということを確信している」とは言えない。「阿羅漢という境地があることを信じているので、それを目指して実践している段階」だ。阿羅漢に達しないと、阿羅漢果の境地は、体験のしようがない。それまでは、「信じる」しか方法がない。
いや、実はこれにも言い方がある。「日々実践して体験した確信を積み重ねていくこと、これが信」。だから、これでいける段階までは、それでまったく問題ない。しかし、ある段階からは、これでは弱くて、進むことができなくなる。
なぜか。
修行には五力が大事なのはご存じだと思う。信saddhā、精進viriya、念sati、定samādhi、慧pañña。以前書いたように、バランスが大事だが、念はどれだけ強くても良い。信と慧はバランス良く、精進と定はバランス良く、しかしどれも強く育てていかなくてはいけない。
ではこの「信」が、確信のことだとしよう。となると、念satiか、慧paññāのこととなる。スマナサーラ長老は、法話でも冥想指導でも非常にうまーく念に誘導するので念になれば問題はないのだが、これが慧になると大問題になる。
信が少なく慧が強くなると、どれだけ知っても満足できなくなる。上の日常経典の引用にあるように、「信」は「種」。これがないことには、経典も理解できない。今までも何度も書いてきたことだが、テーラワーダの日本語の資料が皆無だという私の主張は、ここから来ている。「信」という「種」を持っていない人たちが書いているのだから、私には物足りないのだ。
別に、そういったものを否定したいわけではない。そういうものがあっていいし、そういうものがあるからこそ、ここまで日本にもテーラワーダが定着することができた。その功績は大きい。これからも、テーラワーダの流布には大きな役割を果たすことは間違いない。しかし、より「濃い」段階に、来てもいるのではないか、と私は思うのだ。
テーラワーダは宗教ではない、ということでこれまでテーラワーダは日本に布教されてきた。もういいではないか。テーラワーダは宗教だ。ここまで智慧を積み重ねてきた皆さんには、信仰の力が加わると、より強大な確信が生まれることは間違いない。だから、言葉はぼかしたが、こんなことを書いた。
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かなり先のことになるが、ここで
・アビダンマッタサンガハ 南方仏教哲学教義概説
監修 水野弘元、訳注 ウ・ウェープッラ、戸田忠
アビダンマッタサンガハ刊行会
から引用させていただく。
49頁。
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信 仏法僧の三宝及び因果業報などを信ずること。邪命外道などの説を信ずるのは正しい信ではなく、邪信(micchā-saddhā)であって、具体的には無知或いは邪見が主となる不善心心所である。
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伝統的には、悪因悪果、善因善果を信じないことを無智、痴という。どうしたら業と果の関係を知り、完全に確信することができるのか。こうなれば、もう大阿羅漢でも無理だ。正自覚者にしかできない。大乗仏教が正自覚者を目指すのは、そういった意味もあるのかも知れない。まったく知らないが。
余談だが、テーラワーダでも正自覚者を目指すお坊様、というのはいらっしゃる。
一昨年に亡くなった、ラーマンニャ派の副管長でいらっしゃった、アリヤダンマ長老。実はスガタ精舎に雨安居にいらっしゃる、という話があったのだが、惜しくもその前に亡くなってしまった。
本人が言ったわけではないが、亡くなって兜率天にいらっしゃるそうだ。なぜか。正自覚者になるために何回も輪廻して修行なさっている菩薩の一人だからだそうだ。
「菩薩の一人」。だから、そういう人がどのくらいいるのか、わかったものではない。経典にあるように、次の正自覚者、弥勒仏陀になるとお釈迦様に予言されている弥勒菩薩は、もう既に兜率天にいるので、アリヤダンマ長老の話が事実だとしたら、少なくともその次の正自覚者以降、ということになる。
と、このような話、「信」が「確信」では、信じようがない。
なぜ今回「信」の話なのか、というと、アビダンマッタサンガハも、「信」が無ければまるで頭に入ってこないからだ。色もそうだが特に摂離路分別vīthimuttasaṅgahavibhāgaの地獄や天界の話など、絶対に無理だ。
だから、そういう所に興味のない段階では、特に現代においては、「信仰ではない」と「信じて」いた方が良い。
これが、私が昨日
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「ばか、やめろ、それはスマナサーラの罠だ!」と(笑)。
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と書いた理由である。もしよろしければ、長老が嘘つき呼ばわりされたという、こちらもご覧いただければ私の意図するところがお判りいただけるかと思う。
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ここまで読んでくださった方には、もう意味を理解していただけたと期待して、昨日のブログを一部、長くなるが引用したい。
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どの本だったか、法話でだったか忘れたが、(スマナサーラ長老が)こう言っている。「沙弥が出家する時、髪を剃ります。その時に「今から剃るぞー、さあ剃るぞー」とか言ったら、怖くなってしまう。だから、世間話とかしながら、さっと剃ってしまうと、本人からしたらいつの間にか終わってしまう」。そういうことだ。
しかも、こうも言う。「こんなことは簡単です、と言わなければならないこともある」。
だから、この髪を剃っている間、世間話をしている間に、横から「おい、お前、今髪を剃られてるんだぞ、わかってるのか!」などとは、死んでも言ってはならない。
しかし、私は、ネットを見ているだけでも、こう言いたい時がたくさんある。「ばか、やめろ、それはスマナサーラの罠だ!」と(笑)。
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そして最後に一言。テーラワーダで言う「信」というのは、お釈迦様に対する「信」。それ以外はバッディ(辞書で出てこなかったので綴りがわからない…)という。bhaya、「恐怖」から来ている言葉だ。他宗教で考えると分かりやすいだろう。
お釈迦様「以外」は、バッディ。それは、スマナサーラ長老でも、パオ・セヤドーでも、マハーシ・セヤドーでも、アリヤダンマ長老でも、ない。お釈迦様「以外」は、バッディ。
だから、色々な問題が起こる。