アビダンマ(略)の読書感想文5
引き続きこの2冊にお世話になります。
・アビダンマッタサンガハ 南方仏教哲学教義概説
監修 水野弘元、訳注 ウ・ウェープッラ、戸田忠
アビダンマッタサンガハ刊行会
・アビダンマ基礎講座用テキスト
ウ・コーサッラ西澤
26頁。
不善異熟心。好ましくない結果。
私は業と異熟の関係があまりよくわかっていない。これ以降の善異熟心より後は、おそらく善業の結果だろう、ということは想像がつくが、不善異熟心は、ではすべて不善業の結果なのか、といわれると、どうなのだろう。または、不善業の結果についてのみ、不善異熟心ととるのだろうか。ここから読み進めていけば答えがあるかも知れない。
まあとにかく、不善の眼耳鼻舌の捨倶の識、身識の苦倶、意については捨倶の領受心と捨倶の推度心の7つが不善異熟心だそうだ。前にも書いたが、苦倶はここ、身識の不善異熟にしか存在しない。このことから、
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ここにある、sabbe saṅkārā dukkhāti一切行苦の「苦」とは、身識の苦倶の「苦」のみを指すものではない、ということは明らかだ。
といっても、じゃあ身識の苦倶だけなくせばいいんじゃん、となると、結局無余涅槃に入るしか方法はなくなる、ととれば、同一としても構わない。
わかっていただきたいのは、苦倶の「苦」は苦苦dukkhadukkhaの「苦」(またはその一部の「苦」)であって、行苦saṅkhāradukkhaの「苦」とは包括する範囲が違うんだよ、ということだ。
しかし、一緒です、といったところで、では間違いか、と言われると、上記に書いた通り、「う~ん」だ。分かっている人がそう言ったのなら正解、分かっていない人がそう言ったのなら不正解(笑)。テーラワーダとは、所詮そんなもんだ。
あ、いや、阿羅漢になったら身識の不善異熟心は起こらないんだっけ?阿羅漢になっても悪業の結果は受けるが、それが不善異熟、とは言わなくなるのか?しかし他に眼耳鼻舌身に対応する心もないし、しかし悪業の結果が不善というのか、そもそも好ましい好ましくないを乗り越えた阿羅漢に不善もくそもあるのか。わからない。
もし不善異熟心が阿羅漢にも起こるのであれば、身識の苦倶の「苦」は、行苦saṅkhāradukkhaの「苦」でないことは明らかだ。となると、苦苦dukkhadukkhaの「苦」は行苦の苦に入るところもあるし、入らないところもあるのか?
それとも、不善異熟「心」だから、身識に(ここでの便宜上)好ましくない異熟が起こっても阿羅漢の心は動揺しない、苦を感じない、だから身識の苦倶の不善異熟心は起こらないのだろうか。
とにかく異熟については私にはわからないことが多すぎる。来世以降のことを指すのか、しかしこれまた後で出てくるが、力が強いと、現世で受ける業もある。それも異熟だよなぁ。
というわけで、私に異熟について詳しく説明してくれる人を募集しています。
次。無因善異熟心。
善の眼耳鼻舌の捨倶、身識の楽倶、捨倶の受領心、喜倶の推度心、捨倶の推度心の8つ。善業の結果。
まあ眼識に眼福だといって楽倶がないのはわからないでもないが、鼻識とか舌識に快いものは楽倶といっても良い気がするのだが、あくまで楽倶は身識のみ、だ。良い匂いをかいで喜ぶのはsomanassa喜倶だから、欲にならなければ喜倶の善心、ということだろうか。
スリランカ人はとにかくお釈迦様にお花をお供えする。華やかだ。以前上げた動画にもあったが、仏塔供養法要の時などはまあそれは派手だ。大量にお花をお供えする。日本ではちょっと考えられない量、しかも基本茎などは添えないから、その日限り。まさしくその法要のためにのみ、お釈迦様にお供えするのだ。
たとえばその場に居合わせたとして、そのお供えした花の良い匂いをかいだとする。「ああ、今日は素晴らしい法要に参加した。お供えした花の香りも周りに漂って、ありがたい空間に居合わせることができた。徳が高いなあ」と思えば喜倶の善心、「ああ、良い花の匂いだぁ」となれば、喜倶の不善心。ということでいいのかな?
ここら辺から私の知識も相当あやしくなってくる。最初に「これはアビダンマッタサンガハの解説ではない。ただ私の無知を晒そう、という試みである。」と書いておいて、本当に良かった。
さてこの無因という言葉、アビダンマで出てくる「因」と言えば、貪瞋痴、不貪不瞋不痴、特に不貪不瞋不痴のことを指す。皆さんなぜか大好きな、無因、二因、三因、の因、だ。
アビダンマ上、生まれが二因だと悟れない。三因でないと悟れない。まあこれは生まれの話であって、ここの「無因」とは関係が無いのだが、
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〈無因という語を入れる理由〉不善異熟心は無因のみであるため、無因であるか有因であるかと迷うことがないから、不善異熟心と言って無因の語を入れない。
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とある。全てに「因」が入っていれば分かりやすいのだが、まあ慣れてくると入っていようが入っていまいが別にどうでもよくなってくる。
しかし、ミャンマーの本式のやり方で分析しまくろうとなると話は違ってくる。まあとにかくどこからどう突っつこうと穴が無い。心がいくつ心所がいくつと、数でも攻めてくる。あのためには、ほんとうにすべて矛盾が無いように把握しておかないと、どうにもならない。
以前名古屋でコーサッラ長老にアビダンマ(ッタサンガハ)を習っていた時にも疑問に思ったことが多かったので、微に入り細に入り突っ込んでいたが、勿論納得のいく以上の回答をもらった時がほとんどだが、ごく稀に「うっせーんだよ」くらいの圧力を受けたことがある(笑)。
スマナサーラ長老の本にも結構出てくるが、アビダンマ(ッタサンガハ)には、現代の考え方からするといかがなものか、ということがある。特に色、これを物質ととると、現代の考え方からは相当かけ離れたものになる。私も当時そうだった。コーサッラ長老にキレられた(笑)のも、その単元だ。
今思い返すと、いや、色について「も」よく覚えていないのだが、アビダンマ全肯定というわけでもないが(というか全肯定できるほど知らない)、色についての分析は、理にかなっていると思う。ただ、現代とは視点、見る向きが違う、ということだ。現代だとどうしても物質というと絶対的にとらえられがちだが、それはそういう一つの視点に過ぎないよ、ということだ。別に間違いだとか、そういうことではない。世俗諦なんだから、テーラワーダとしても、勉強することは推奨される。しかし、真理、勝義諦を観ようとする上で、色についてはこう見るべきだ、という指針。
とか言っとくと、格好良くない?
そもそも、確かスマナサーラ長老の本に、色について、「物質が見える」みたいなことを書いてあった気がするが、はっきり言おう、あれは「釣り」だ。どうせみんな、「名色分離智」につられるのがわかっているから、ああいう言い方をするのだ。私がヴィパッサナー的な立場から経験上言うわけではないので別に信用していただかなくて結構だが、現代的なイメージの物質、たとえば電子顕微鏡で見るような粒子みたいなものか、あんなものが心で見えたところで、真理は見えない。それなりに心の能力は上がるのかも知れないが、それだけだ。または、それに付随するおまけがついてくるだけ。あれで真理が見えるのなら、電子顕微鏡で見ている人は少なくとも預流果に悟っているはずだ。心で直接見ると違うんだ、というなら、まあ透視程度だろう。できればすごいが、それが「真理」か?
まず、現代で言う「真理」と、テーラワーダで言う「真理」は違う、ということをわかっておこう。
ついでに。スマナサーラ長老に限ったことではないが、テーラワーダのお坊様は、よくこういった「釣り」をする。わかった上で、あえて挑戦的な言葉を使う。あれは、腕があるからできる技であって、我々がそれを真似してはいけない。
スマナサーラ長老が言うと、三法印、無常、苦、無我は我々にも簡単にわかるように聞こえる。とんでもない!それが究極の真理だからなのか、皆偉そうに無常、苦、無我について語るが、あれも、そういう事態に陥ることが最初から見えていて、しかし大乗仏教とは違うんだよ、ということをインパクトをもって伝えるためにあえてそういう手段に出ている。少なくともテーラワーダのお坊様が言う無常・苦・無我以外については、聞かなくていい。どうせ真理が分かったうえで言っていることではない。スマナサーラ長老の真似なんて、法話を聞いていれば、本を読んでいれば、バカにでもできる。しかし、少しそこから手足が出てしまうと、馬脚を現す。
しかしこれは、テーラワーダに限った話だ。他の宗派でいう、無常、苦、無我については、私は知らない。そこを批判する意図でないことは、ご了承いただきたい。
もうここまで読んで下さっている方には言ってしまってもいいだろう。テーラワーダというのは、恐ろしく難解だ。そのくせ、衒学的なわけではなく、まともな人が言うことであれば、対象者には役に立つこと、だ。まあ当たり前だ、比丘の戒律にも、無駄なことはしゃべるな、とある。相手の役に立つことでなければ、しゃべるな。しかし、それを対象者でない人が見ると、なんのことかわからないことがある。「間違いだ!」と思ってしまうのも、無理のないことだ。
その上、確かこれは以前書いたことはなかったと思うのだが、テーラワーダはスパルタだ。スマナサーラ長老でさえ、これは隠している(笑)。ヒントは出しているのだが。
どの本だったか、法話でだったか忘れたが、こう言っている。「沙弥が出家する時、髪を剃ります。その時に「今から剃るぞー、さあ剃るぞー」とか言ったら、怖くなってしまう。だから、世間話とかしながら、さっと剃ってしまうと、本人からしたらいつの間にか終わってしまう」。そういうことだ。
しかも、こうも言う。「こんなことは簡単です、と言わなければならないこともある」。
だから、この髪を剃っている間、世間話をしている間に、横から「おい、お前、今髪を剃られてるんだぞ、わかってるのか!」などとは、死んでも言ってはならない。
しかし、私は、ネットを見ているだけでも、こう言いたい時がたくさんある。「ばか、やめろ、それはスマナサーラの罠だ!」と(笑)。
もうすでに後に引くに引けなくなった、哀れな中年からの、ささやかながらのアドバイスだと思っていただけたら幸いだ。
もうひとつ。スマナサーラ長老も他のお坊様もそうだが、日本の現状に合わせて発言をなさる。お布施なんかがいい例だ。日本人はケチだし、盗みもすごいから、お布施の話なんかしたら危ない。
特に、こんな話を、スマナサーラ長老のお布施の発言を真似る人が出てきたら、どうなるかはすぐにわかるだろう。「スマナサーラ長老がこう言った。だからお布施しろ」となるに決まっている。
ネットで寄付を募ると必ず批判する人が出てくるし、大量にお布施している、例えば杉様にも、批判はある。しかし、あのインタビューはカッコ良かった。
「(災害時の炊き出しが売名行為ではないのか、という批判に対して)はい、売名行為です。皆さんも、何十億も出して、売名行為すればいいんですよ。」
つゆのまるこさんも、まさに今、活動なさっている。twitterを見て、あの行動の速さに驚愕、鳥肌が立っている。さすがはプロのお坊さん、というレベルでも既にない。
では、例えばその先が、だましてそういうことをしている人だったとしよう。実名で出ているのだから、もしそうだとしたら夜逃げ同然になるだろうが、盗んで逃げたとしよう。テーラワーダ的には、それでもそのお布施は善行為だ。何の問題があるだろうか。そういう所が、日本人はケチだ、と言いたくなるところだ。少なくとも、お金を出しもしないのに、なぜ文句を言うんだろう。お金を出した人が文句を言うなら、まだわかる。
また、このようにお布施を募るのは無行の善行為だが、そのまとめ役が自分の立場を優位にしよう、と思ってするのは、また最初はそういう気が無くてもだんだんそういう気持ちになってきてしまうのは、悪行為だ。
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私も、残念ながら「私は世話役だ!」と言ってお布施をせびられたことがある。テーラワーダでの話だ。
こうした善行為に対して喜べないのであれば、確かに現時点ではお布施はやめた方が良いのかも知れない。