さくらぎ瀞がわかる範囲の(スリランカの)テーラワーダの教え

スダンマ長老の弟子(在家)がつぶやいてみる。(只今休止中です)

アビダンマ(略)の読書感想文3

 今日も2冊にお世話になります。


・アビダンマッタサンガハ 南方仏教哲学教義概説
 監修 水野弘元、訳注 ウ・ウェープッラ、戸田忠
 アビダンマッタサンガハ刊行会

・アビダンマ基礎講座用テキスト
 ウ・コーサッラ西澤


 21頁。

 不善心、欲の心。喜倶と捨倶、見相応と見不相応、それに無行と有行。

 この2冊とも「悪見」となっているが、diṭṭhiといえばまあ悪見のことなので、これはどちらでもいい。悪見、とした方が意味的には丁寧だし親切でわかりやすいが、パーリ語ではdiṭṭhigatasampayuttaṃ、またはdiṭṭhigatavippayuttaṃと、特に「悪」という言葉が入っているわけではない。でも、意味は「悪見相応、悪見不相応」で間違いない。

 diṭṭhiといえば見方、考え方のことで、それだけで「悪見」を示すわけではない。sammā diṭṭhi正見。正しいものの見方、考え方。しかし文章にdiṭṭhiと出てくると、まあその時は大概結局は「悪見」のことだ。


 22頁。

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受には楽・苦・喜・憂・捨の5種類があるので

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 後で出てくることだが、身識には楽受、楽倶がある。ここで出てきたように、貪根心と善心以降に喜受、喜倶が出てくる。

 行苦saṅkhāra dukkhaと取れば「一切は苦である」で良いが、苦しみ、と取ると、生きることはすべて苦しみ(ここでは憂倶も入れて)である、というのは違うよ、ということはアビダンマッタサンガハを読むだけでもわかるようになっている。私に、では「苦dukkhaとは何か」とは訊かないでほしい。悟ってねーんだからわかんねーんだよ(怒)。

 一応わかる範囲で書いておこう。

 転法輪経から。

idaṃ kho pana, bhikkhave, dukkhaṃ ariyasaccaṃ, jātipi dukkhā, jarāpi dukkhā, vyādhipi dukkho, maraṇampi dukkhaṃ, appiyehi sampayogo dukkho, piyehi vippayogo dukkho, yampicchaṃ na labhati tampi dukkhaṃ saṃkhittena pañcupādānakkhandhā dukkhā.

 四苦八苦が苦、早い話が五取蘊pañcupādānakkhandha(五蘊、ではない)が苦だ、とお釈迦様はおっしゃっています。それがどういうことかはわかりません。


 さて、冥想をしているとたまには気分が良くなってしまうこともある。別に悪いことではない。これはsomanassasahagata喜倶だ、とわかりやすい。しかし、それに執着してしまって、「あの感覚をもう一度!」となると、これは貪根心、欲になってしまう。だからかもしれない、冥想指導者に「淡々とやりましょう」みたいなことを言われたことはないだろうか。不苦不楽、捨が重要だよ、ということだ。

 ここでの捨倶とは、不苦不楽のこと。喜倶でもなければ憂倶でもない。楽倶でもなければ苦倶でもない、とも言えるかも知れないが、身識に捨倶はないので、ここには入れなかった。アビダンマにおいて、身体の認識は楽か苦かしかない。vedanāと言えば、そのまま「痛み」みたいな意味もある。

 23頁。

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〈力の比較〉喜倶心と捨倶心とでは、欲界に於いては喜倶心が強く、大界(上二界)と出世間においては捨倶心が強い。

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 「欲界」というくらいだから、欲の引き金となりやすいsomanassasahagataの方が力が強い、ということだろうか。わからん。色界、無色界、出世間心では捨倶心の方が強い、とのこと。

 禅定においても、色界禅定最高位は、禅支、捨。somanassasahagataよりここですでに力が強いことは証明されている。

 では、捨倶、不苦不楽とはなにか。以前にも書いたように、私にはよくわからない。楽しい、というのはsonamassaの気がするし、そう考えると、捨倶って、つまんない気がする。スマナサーラ長老がおっしゃる「落ち着き」というのはこのことだと思うのだが、落ち着きのない私には、はっきり言ってよくわからない。誰か、教えてくれませんか。結構切実な問題なんです。

 ちなみにここで言う捨というのは、慈悲喜捨の捨とは違う。その捨も、(基本)捨倶であることは間違いないのだが、捨倶の捨とはまったく違う、ということは覚えておこう。智慧のある無関心、だったか。はたから見て無智とまるで同じに見えるので、そういう人を見て「無関心は無責任」と言う人もいる。これも後で出てくることだが、こういうことを言っていると、愁soka、悲karuṇāの失敗を引き起こす。sokaparidevadukkhadomanassupāyāsāのsoka(文脈によって、意味が同一ではないけどね)。日本人が大好きな、「一緒に悲しむ、泣く」というやつだ。完全無関心もいかがなものかと思うのでまったくは否定しないが、あればかりやっていると、暗い人になりますよ。最低限、人に押し付けるのはやめてください。私はソーカ〇ッカイ出身だから、sokaについては専門家ですよ(勿論嘘です)。

 確か東日本大震災の週末だった。ゴータミー精舎でのスマナサーラ長老ご法話の中継が予定されていた。

 首都圏もかなりの被害を受けていたし、この状況下、予定通り開催されるかどうかも不安に思っていた。それ以前に、このさなかどんなことを話すのか、気が気ではなかった。長老がそんなことを話すはずもないのだが、こんな時に「人が死ぬのは当たり前です」なんて言おうもんなら、それこそ袋叩きに遭いそうだ。

 中継は始まった。最初、やはり私には、会場もいつもにはない緊張感に包まれているような感じがした。しかし、なんということだろう、長老が話していくにつれ雰囲気は穏やかになり、次第に笑いまで取っていくではないか。無論その中にはいつものように厳しい言葉も入っている。気持ちを落ち着けるだけでは終わらない。日本中、下手すれば世界中の人が気が気ではなかったあの時間、長老は穏やかな輪を広げてしまった。それどころか、その中に我々に成長を促す言葉、躾も含まれている。

 あれがホンモノのkaruṇā、悲、抜苦、だ。どこかで長老が泣いていたか?修行を積んでいるからこそできる技だ。しかし、あれを目指すのは、悪くない。


 無行、有行。

 色んな分け方があると思うが、人の働きかけが無いから無行、人からの働きかけがあるから有行、とも言える。

 善行為をする時、人に言われたからやる、というのは有行、人に言われなくても自発的にやるから無行。もちろん無行の方が力が強い。


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有行心と無行心とでは、有行心よりも無行心が強い。

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 ここだ。