テーラワーダの沙弥について2
このブログの存在が、スダンマ長老にバレた(笑)。
まあ別にばれたからといってまずいことを書いているつもりはないので構わないのだが、沙弥に関して伺うと、
sakuragi-theravada.hatenablog.jp
この記事に関しては、言い方がだいぶ強かったようだ。
じゃあ訂正しようか、または削除しといた方が良いよなあとも思ったのだが、せっかくなので自分の勇み足を晒し続けようと思う。
結論から言うと、一時出家のいきなり比丘の件、「間違い」とまでは言えないようだ。
やはり沙弥というのは比丘見習いといえる位置づけで、一人前の出家か、と言われると疑問符が付くようだ。しかし在家からすると立場が上なのは変わりがない。
沙弥から比丘になるには試験、面接があるそうで、その結果が悪いと、「何を教えてるんだ」と師匠まで怒られるらしい。
年を取ってから出家した人にはそういうことはしない。だから、そういったお坊様が説法なさる時のパーリ語の解説などは「?」ということがあったりするようだが、内容は素晴らしい。ま、内容が素晴らしい説法でなければ、あんな何万人も比丘がいらっしゃる国では、表に出てこれない。
あまりここには関係のない話だが、中には説法が得意ではないお坊様もいらっしゃるようだ。有名なお坊様でもそういう方がいらっしゃるようで、しかしそういった方は別に得意な分野がある。
これは律、ウィナヤに書いてあることではなくスリランカの習慣だそうだが、5月から7月の満月の間に、宗派で出家式が年に一回行われる。宗派の管長さんなどがいらして大々的に行われ、それまで沙弥だった方は一度還俗し、もう一度沙弥出家儀式を経て、比丘になる。この時象に乗って大行列を組むが、これは比丘になるということは王様より立場が上である、ということを見せる意味がある。王様が象の上に乗るのではない、比丘出家する方が象の上に乗るのだ。
スリランカでは基本この比丘出家式によって比丘になるが、例外はあるとのこと。例えばお寺の住職さんが亡くなりそうだ、しかし弟子には比丘がいない、急いで沙弥を比丘にしよう、とか。そういう時は律に則って比丘出家儀式を行う。
スリランカには一般に一時出家という習慣がない。出家するなら一生出家でいる覚悟を持て。そういうこともあって、いきなり比丘出家する、というのは別に無いこととは言えないようだ。
まあしかし私としては、なんともやりきれない気持ちでいることは確かなので、なんだかなぁ、とは思う。
日曜学校での偈
富士スガタ冥想センターでも子供たちに対して、日曜学校を行う時がある。こちらにいる、学校に行っているスリランカ人の子供たちは日本語の方が得意な子が多く、数少ないシンハラ語を教える機会ともなる。
そこで子供に偈を教えたりするのだが、びっくりした。
「悪い心を持っていると、善いことはできない。
善いことをしなければ、生まれてきた意味がない。」
こんなことを子供に教えてるのか、と。お母さんたちも「うんうん」と聞いている。普通らしい。
だからといってスリランカ人が素晴らしいか、と言われると、まあそれは日本人と同じだ。仏教国に生まれたからといって皆が教義に詳しいとかそういうことはなく、しかし文化的に、習慣的に、テーラワーダ的だ、というアドバンテージはある。でも、その意味を説明できる人は珍しい。
さて、「悪い心を持っていると、善いことはできない。」
先日北陸ダンマサークルのスカイプ法話に立ち会わせてもらっていたのだが、その時にスダンマ長老がおっしゃっていた。
「貪瞋痴の心で冥想をやっても、成長しません。」
sakuragi-theravada.hatenablog.jp
「見栄でするお布施は意味がない。」表面的には善いことに見えても、心が貪瞋痴で汚れていたら、結果は出ない。
なるほど、それはこういう意味だったのか。
それでも、我々の心は貪瞋痴で汚れている。それを一時的に、ちょっと横に置いておいて、善行為をしていこう。それが、一時的な悟り、tadaṃgappahāna。
ついでにもうひとつ、こちら。
mettāについて、非常に参考になる法話です。