さくらぎ瀞がわかる範囲の(スリランカの)テーラワーダの教え

スダンマ長老の弟子(在家)がつぶやいてみる。(只今休止中です)

いっそテクノロジーで人間を不要に

 嫁さんに言わせると、どうも私は難しいことばかり言うらしい。

 

 私としては、私が敵視する、テーラワーダを曲解して日本に伝える(た)仏教学者がバカだと証明するために意図的に「ふわっ」としたことを書くのを避けてきたのだが、残念ながらあまり支持は得られていないようだ。

 

 「ふわっ」としたことを言うと、反論されたときにどうとでも逃げが打てるし、逆に言えばどうとも反論できる。だから私としてはどうしても「卑怯」と思えてしまいこれまでやってこなかったのだが、面白い記事が日本の仏教界隈で話題のようなので、これを機に「ふわっ」も解禁しようと思う。

 

aishinbun.com

 というわけで、これを見て私が思った感想は、「もういっそのことテクノロジーで人間を不要にしてしまえばいいのでは」だ。

 


 研究者としては研究費を得なければならないし、記事を書く方だってビジネスなのだから、多少「盛る」。別にこれは悪いことではない。こういうテクニックは上手いに越したことはない。

 

 そこに「欲があるだろう」と言いたいわけでもない。それは普通の欲だ。在家に対して文句を言いたいレベルでもない。

 

 そして、もしこの研究がうまくいって完全に冥想が不要になるなら、それでも良い。しかし私は、そうはならないと思っている。その根拠を話そうと思う。

 


 その根拠とは、悪因悪果、善因善果。悪因苦果、善因楽果でも良い。

 

 この記事を読むと、「これこそ小乗の悟り」と思わないだろうか。個人の悟りだけ求めている、と。同じサイトにある記事を前にもここでリンクしたことがあったが、あの記事も基本その立場に立っていた。大乗仏教からテーラワーダが批判される時もそこを突かれることがある。

 

 なぜテーラワーダでは大乗仏教のように「民衆救済」を言わないのか。これは以前書いたように、

sakuragi-theravada.hatenablog.jp

 「人のため」を強調しすぎると、まず人に押し付け始めるからだ。仏教協会のダンマサークルの会議に出た時に「ノルマ」という言葉が出たことがある。あれだ。

 

fujisugatavihara.blogspot.com

 「人のことはどうでもいい、自分のことを見なさい」というのは、人のことなんかどうでもいいから自分のことだけ考えなさい、という意味ではない。自分の心を見つめていくと人の心にも共通のものが見えてくるから、そうすると他人に対しても良い影響を与えられるからまずは自分の心を見なさい、ということだ。これが逆になると、自分のことなんかどうでもいいから、まずは人のことを考えなさい、となってしまう。

 


 そして、この記事は西洋社会のものだ。

 

 大雑把に言って西洋社会というのは基本個を大事にして和を大事にしない。逆に日本社会は和を大事にして個を大事にしない。そういう前提があるコミュニティーの大多数に向けてまったく同じことを言ったとしたら、どうだろう。

 

 個を大事にする人たちに「和は大事ですよ」と言うのと、個を大事にしない人たちに「和は大事ですよ」と言ってしまうのは、意味が全く変わることがお分かりいただけるだろう。

 

 あっちに行き過ぎたら、こっちに向けないといけないし、こっちに来すぎたら、あっちに向けないといけない。これが中道で、そしてその中道はバランスを取りながらはるか遠くを目指さなければならない。


 脳波を解析とか脳を電極で操作とか、それが悪いと私も思っているわけではない。そうできるのなら、そうしたらいい。薬もそうだが、快方に向かうきっかけであるとか、あまりにも悪いときには悪化することを防ぐために使うとかは大賛成だ。しかし薬と同じで、それはバランスを取り戻すために使うべきであって、中道ではるか遠くに向かうのを後押しすることは、恐らくできないと思う。

 

 これは西洋のことわざだったかどうか忘れてしまったが、馬を水辺まで持ってくることはできるが、水を飲ませることはできない、というのがある。自分の意志で何かをさせることは他人にはできない、という例えだ。日本の教育現場でも、どうもこういうところは無視されているのではないか、と感じることがある。

 


 さて、悪因悪果、善因善果だ。

 

 テーラワーダ的にいうと、開発する方が「自分が幸せになって欲しい、この会社の皆が良くなってほしい、社会が良くなってほしい(、そしてできればすべての生命が幸せになってほしい)」という心が多ければ多いほど、社会には良い影響を与えるものができる。これは慈悲だけに限った話ではないのだが(アビダンマ的にいうと善心であればどれでもOK。バランスも大事だけどね(つまり中捨))、単純に言えば不貪不瞋不痴が多ければ多いほどいい結果を出す。

 

 しかしこれは、なにも開発する方だけの話ではない。この話だけに限って言っても、こことは何の関係もない社会においても同じことがいえるから複雑だ。しかもその度合いがどのくらいかなど、わかったものではない。

 

 だから、テーラワーダ的に言っても、社会全体の善心、不貪不瞋不痴が増えれば増えるほど良い社会になる。しかし教義にもあるように、テーラワーダを実践する人は「世の中の流れとは逆の方向に行く人」。世間は貪瞋痴の方向に流れる、と認めている。その中で良い結果を出しているのなら、それは不貪不瞋不痴の結果だ、ということだ。


 皆さんにも経験がないだろうか。自分が慈悲の冥想をしてみて善い結果を出したから人にも勧めてみたらたいそう嫌な顔をされた、という。有体に言うと、善行為を人に勧めるには相当テクニックが要る。「世の中の流れとは逆」だからだ。

 

 だから、そんなことをして骨を折るより、自分の心を見て、自分がまず善行為をしてください、ということだ。そうすることによって、既に社会の役に立っている、ということがここまででわかってもらえていたら大変嬉しい。

 


 そして、こういう記事の発想の根源には「慳」がある。これが問題だ。

 

 結局は、冥想したくないのだ。そういう言い方をすると、「怠け」と言った方が良いかもしれない。

 

 昔に比べて、テクノロジーは爆発的に進化した。しかし、なぜ人間は幸せになっていないのかと言ったら、これが原因だ。「人のために開発したい」という心の分だけ良い結果があり、「(しなければならない(とここでは規定させてほしい)ことを)せずに済ませたい」という心の分だけ悪い結果がある。もともと世の中は悪い方に流れるようにできているのでその分を差し引く必要があるが、単純に考えるとこういう構図である、ということにさせてほしい。

 

 ビジネスにおいては、限られたリソースの中で効率化を考えることは当たり前だ。しかしそれが行き過ぎると、「慳」になる。その分悪い結果になるが、残念ながらそれは絶対でもない。業によって影響を受けることもあれば、自分とは全く関係がない社会の流れによって良い結果が出ないこともある。

 

 だから、テーラワーダでは心に気をつけなさい、というわけだ。在家としては、できるだけ不貪不瞋不痴の実践を増やしていけば自分の役にも立つし、社会の役にも立つ。これだけは断言できる。

 


 上のリンクにあるように、素人が冥想指導をするのは大変危険だ、と書いた。

 

 世間の大天才と言われるノイマンアインシュタインオッペンハイマーが作り上げたものは何だったか。お坊様は決して言いたがらないが、テーラワーダの知識というのはそういう危険性がある。だからそういう方向性に行かないように、矛盾が無いように本当に苦心して成り立っているなあ、とつくづく感心する。その気持ちを踏みにじる、アホどもに腹が立ってならない。伝える時にくずしてもいいところもあるが、絶対にくずしてはならないところもある。その区別ができないやつが、勝手なことを言うな!「智慧と道徳は同義」みたいな話をスマナサーラ長老から聞いたことはないだろうか。世間で言う智慧とは、イメージが違うのかも知れない。

 

 

 しかし逆に言えば、今こうして使っているインターネットはもとは軍事技術だ。近代とも言わず、テクノロジーはかなりの部分が軍事技術から発展してきた歴史を持つ。こここそまったくわからいが、今日の論理でいくと、貪瞋痴が強くなりすぎてこんどは不貪不瞋不痴のバランスでゆりもどしがあった、とも言えるのかも知れない。または、善心の強い誰かが何とかしたのかも知れないが、残念ながら中途半端な善心だと、まわりが不善ばかりだと強烈な反発に遭う。

 

 これが、吉祥経の、なんと一番目にある

 

asevanā ca bālānaṃ
愚か者と仲良くしないこと

 

 であるし、

 

patirūpadesa-vāso ca
良いところに住むこと

 

 という意味だ。環境があまりに悪いと善いことはできなくなってしまう。もちろん業やタイミングによって留まるべき時もあるが、まあこれは信じてもらえなくても別に構わないが、信saddhāがあると、否応なく環境が変化させられてしまうこともある。

 

 

 結論としては、なので本当に世の中の役に立っている人、というのはわかりにくいし、逆に迷惑になっている人、というのもわかりにくい、ということだ。派手なことが起こると誰の目にもわかるが、それまではなかなかわからない。恐らく本人もなかなかわからない。