さくらぎ瀞がわかる範囲の(スリランカの)テーラワーダの教え

スダンマ長老の弟子(在家)がつぶやいてみる。(只今休止中です)

アビダンマ(略)の読書感想文26

 この2冊にお世話になります。


・アビダンマッタサンガハ 南方仏教哲学教義概説
 監修 水野弘元、訳注 ウ・ウェープッラ、戸田忠
 アビダンマッタサンガハ刊行会


・アビダンマ基礎講座用テキスト
 ウ・コーサッラ西澤


 55頁。

 

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〈見と慢とが別々に相応する訳〉五蘊を我がものとして執する見と、五蘊を我であると驕り、高ぶり、それに強く執する慢とは、互いに執する力が反発しているため、恰かも力の等しい2頭の獅子が、同じ洞穴に住むことができないように、一つの心に一緒に相応することはできない。故に、それぞれ相応する心は別である。

 

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 ちょっと考えてみた。

 

 わからなかった(笑)。

 

 ここは以前からよくわからないというか、納得のいかないところだった。貪根心の見相応では見が入るが、その時には慢は入らない。見不相応には当然見は入らないが、慢が入ることがある。だから、互いに同時には同居できない、ということだ。

 

 よくわからない。慢が強い人ほど「私は頭が良い」といって、自分の見に固執しているような気がしてならない。

 

 ま、これから読み進めていけばわかることがあるのかも知れない。

 

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〈嫉・慳・悪作が瞋根心に相応する訳〉他人の栄誉などを嫉む人、自分の利得などを慳(おし)む人、悪作を作した、善行を作さなかったと後悔する人などに起る嫉・慳・悪作は瞋に基づくものであるから、二つの瞋恚相応心にのみ起るのである。この場合慳は瞋恚相応心ではなく、貪倶心と相応すべきであると考えられるが、慳は貪が直接原因ではあっても、自分の利得などを慳む時、それと同時に我慢できない気持ちが起っている。これは瞋・憂に他ならない。だから慳が起る時には、その直接原因の貪は既に滅しているので、貪倶心には相応せず、瞋恚相応心にのみ相応するのである。

 

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 ということである。

 

 結局ケチの直接原因は欲だとアビダンマでも認めている。認めているが、惜しんでいる時は与える、放すことを「拒否」しているので怒り、ということだ。なるほど。

 

 そして、「悪作を作した、善行を作さなかったと後悔する」ことは怒りだからしなくて良いですよ、とも明記されている。悪いことしたら、きれいさっぱり忘れれば良いのです。

 

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〈惛沈・睡眠が無行心に相応しない訳〉鈍い性質を有する惛沈・睡眠は、鋭利な無行心とは性質が異なるから相応することはない。有行心にのみ相応するのである。

 

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 目に見えるように鮮やかだ。惛沈・睡眠が鈍いというのはよくわかる。無行心は鋭いから、それとは相応しない。うん、納得だ。

 

 57頁。

 

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常に とは出世間心が起るたびに、常に相応していることを示す。

 

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 八正道のうち正語、正業、正命は出世間心には必ず現れる。というか、正思惟が心所としては尋と対応しているので、二禅以降の出世間心とは対応できないだけで、あと7つは同時に存在する。初禅の出世間心であれば8つ全て対応する。

 

 その意味もよくわからないのだが、心所として考えれば当然か、とも思うし、八正道として考えると、まあ八正道の完成が出世間なのだから、そのパワーが同時に存在する、みたいな考えで良いのだろうか。対応させて考えるとなにかものすごく深い世界が広がっているのかも知れない。以前から疑問ではあった場所なのだがこれを読んでも私の理解があまり進展しないので、やはり出世間に至ってみないと分からないところなのかも知れない。

 


 いや~、しかしまだまだ数字が続く。まったく頭がまわらない。正直きつい…

 


 本来ならば飛ばしたいところだが、結局アビダンマ(ッタサンガハ)というのは、こういうことだ。

 

 ウィッジャーナンダ長老のダンマパダの本を読んだことがあるだろうか。あそこには心と心所の対応がいちいち書いてある。

 

 びびった。ミャンマーではああいうやり方をするのか、と思わずしり込みしてしまった。つまり、この相応がきちんとわかっていないと、突っ込まれた時に「まずい!」ということになる。

 

 このやり方は、「論」の国、ミャンマー独特のやり方らしい。スダンマ長老がアビダンマを教えてくれないのは、恐らくこれが理由だと思っている。

 

 つまり、ダンマパダを読んでいても、そしてその注釈書を読んでいても、「はい、ではここは何心で、心所はなにが対応していますか?」といきなり訊かれる、ということだ。

 

 伝統的な在家に向けた説法は、ダンマパダの一つの偈を出して、それをもとに話を進めていく。だから説法をするにはダンマパダの暗記が絶対だ。そして、暗記まではいかなくても(もちろん暗記推奨)注釈書、つまりそのダンマパダについての因縁物語も覚えておかなくてはならない。そして、それを話していてもどこでアビダンマに対応させられるか分かったものではない。

 

 アビダンマッタサンガハを学ぶ、そこに限定しなくても結局テーラワーダを学ぶ、ということは、そういうことだ。だから、まず暗記しておかないとその先辛い。

 


 逆に言えば、在家に説法するには、ダンマパダだけ暗記しておけばOK、とも言える。結局他の経典のエッセンスが入っているし、教えが一通り入っている。そのように後でまとめられたものだ、と聞いた。殆どの偈が他の経典のものだ。

 

 なので出家として必ず暗記しておかなければならないのは、パーティモッカは当然として、日常に読誦する経典とダンマパダ、ということになる。

 

 あとは祝福の時の護経。こちらは本を読んだりスマホを見たりするが、完全にではなくても結局はほとんど暗記している。「確実ではない」程度の話だ。その証拠に、護経からの偈も説法でぽんぽん出てくる。

 


 以前にも書いたが、テーラワーダというのは、まず暗記。話はそれから。つまり、暗記していないと次の段階に行った時には路頭に迷う、ということだ。

 ま、逆に言えば、暗記して理解しておけば、テーラワーダについて人が話していることについて「あ、ここが分かっていないんだな」と瞬時にわかる。じゃあそれを説明しろ、となるとこのブログのように延々と長くなってしまうが…(汗)。

 


 しかし意外なことに、というか、暗記しているからこそ見落とす、ということも実はあるようだ。以前あるお坊様と話をしていた時、私が「それは偈ですか?」と訊いたら、ちょっと考えた後に「お、そうだ、これは偈(形式を持つ詩)だ」と驚かれていた。私は「それを書面にする時にはどう書こう」なんて考えていたから気になったのだが、暗記していると意外にそういうことは気にならないのかも知れない。


 暗記するということは、体の中に入れる、自分のものにする、ということだ。そしてこれは定期的に使っていないと、つまり普段からいろんなものに当てはめて考えてみたり、上の話のようにダンマパダをやる時にもアビダンマを当てはめてみたりしないと忘れてしまう。私も以前は暗記していた法華経の一部も、今はすっかり忘れてしまった。

 

 だから、

 

āsevitāya, bhāvitāya, bahulīkatāya, yānīkatāya, vatthukatāya, anuṭṭhitāya, paricitāya, susamāraddhāya

fujisugatavihara.blogspot.com

 

 または

 

uggaṇgātha bhikkhave, āṭānāṭiyaṃ rakkhaṃ pariyāpunātha bhikkhave āṭānāṭiyaṃ rakkhaṃ dhāretha bhikkhave āṭānāṭiyaṃ rakkhaṃ

 

 なのだ。使ってください、暗記してください、自分のものにしてください。

sakuragi-theravada.hatenablog.jp