さくらぎ瀞がわかる範囲の(スリランカの)テーラワーダの教え

スダンマ長老の弟子(在家)がつぶやいてみる。(只今休止中です)

アビダンマ(略)の読書感想文19

 今日もこの2冊にお世話になります。


・アビダンマッタサンガハ 南方仏教哲学教義概説
 監修 水野弘元、訳注 ウ・ウェープッラ、戸田忠
 アビダンマッタサンガハ刊行会


・アビダンマ基礎講座用テキスト
 ウ・コーサッラ西澤


 四無量心について詳しく書いてあるので、

 

・仏教事典(仏法篇)(パーリ語-英語-日本語)
 ポー・オー・パユットー著 野中耕一翻訳

 

 を引用しようと本をめくったら気になった箇所があるので、まずそちらの話を。

 

 ちなみにこちらの本、私のうちにあるのは昔の施本版の方なので、製品版では変わっているかも知れないことはご了承いただきたい。

 

 この本の7頁、[27]番の涅槃の箇所。

 

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1.有余依涅槃(Saupādisesa-nibbāna : Nibbāna with the substratum of life remaining) : まだ煩悩によって占められた状態が残っている涅槃。

 

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 私は「これは間違っているぞ」と思った。これはkilesaの意味、またはそれにあたるタイ語の翻訳を間違えたのではないか、と思ったからだ。しかし、次のページにこうあった。

 

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(注釈) : 以下のような説明もある。

1.煩悩涅槃(Kilesa-parinibāna : extinction of the defilements) : 煩悩は無いが、まだ五蘊が残っている。

 

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 kilesaという言葉があからさまに入っているにもかかわらず、ここできちんと「煩悩は無いが」と明記されている。ということは、kilesaという言葉について翻訳が間違っていたわけではない、ということだ。

 

 西澤先生の本の51頁にもこうある。

 

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それは自性としては寂滅の相Santi lakkhaṇaとしては一種であるが[相に]基づく仮説によれば、有余涅槃界Saupādisesanibbānaと無余涅槃界Anupādisesanibbānaとの二種がある。

 

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 長くなるが、後で必要になるのでこれ以降もしばらく引用する。

 

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現法涅槃diṭṭha dhamma nibbāna 當来涅槃samparāyika nibbāna 煩悩涅槃 kilesa nibbāna 蘊涅槃 khandha nibbāna
また行相の別による、空Suññatanibbāna 無相Animittanibbāna 無願Appaṇihitanibbānaの三種がある。

 

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 有余涅槃saupādisesanibbānaについてはとらえかたがいくつかあるのかも知れない、とも思ったが、「まだ煩悩によって占められた状態が残っている涅槃」は明らかに間違いだ。煩悩が残っていたら、それは涅槃ではない。何が残っているのかといったら、それはまだ名色が残っている。だからsaupādisesa、まだ残っている、余っているものがある涅槃。

 

 今回調べるのにまたここを使ってみたが、

dictionary.sutta.org

ここで、彼の辞典は、(下にある)真ん中らへんにある中国語の辞典の丸パクリであることがわかるだろう。前から「日本語じゃねぇなあ!」と思っていたが、まあ時代かもしれない。当時は漢文以外で仏教を勉強する人も日本には恐らくいなかっただろうから。

 


 なんかついでだからまた愚痴(笑)を。

 

 おそらく、野中耕一さんだって、何も調べずにそんなことを書いたわけではないと思う。私も学者ではないし確かお坊様から一回聞いただけだから間違っているかも知れないが、kilesaという言葉の意味は、別に(前述の)彼の辞典が間違っているわけではない。9割がた、kilesaと出れば「煩悩」で間違いない。しかし、それだけでは足りない。

 

 kilesaというのは、もちろん煩悩のことだが、その煩悩によって起こした悪行為の結果生じる業によって受ける結果、異熟(と言っていいのかどうかは私には確証がないが)のことも指す。

 

 アングリマーラ長老が阿羅漢になってからも、外を出歩くとやたらと石に当たるとか、聞いたことがあると思う。他にも、モッガッラーナ尊者が最後に殴り殺されたのは前世に親を殺した悪業の結果だとか、お釈迦さまにも頭痛があったとか。あれがkilesaだ。

 阿羅漢は悩まない。だから、そういったことが起こったからといって悩むわけではないが、そういった悪業の結果から逃れられるわけでもない。名色が無くなる無余涅槃では、当然名色が滅しているのだから、悪業から逃げるも何も無い。日本では死んだら成仏と言われるのは、そういったことからも完全に逃れられるから、という意味で、なのかもしれない。毎度のことながら、そうかどうかはまったく知らないが。

 

 なぜそうなるのかというと、前述の彼だって、中村元だって、そういう考えの人たちのサンスクリットなり漢文なりを読んで勉強してきたからだ。

 龍樹という人がいる。すまん、私は全く知らないし、サンスクリットも読めないし彼の日本語訳どころか伝記のようなものまでまったく読んだことがないので適当なことを言うが、やたらと伝説化されている彼をこういっては何だが、彼は「ただの」テーラワーダのお坊様だった。ただ、「勝義諦においてはすべて空ですよ」と言っただけだ。これはākāsaの空ではない。suñña、空性の空だ。以前書いたākāsakasiṇaとsuññaの空を間違えられては困るから、虚空遍、という。パーリ語に忠実に訳すのなら「空遍」。そもそもsuññaはカシナできない。

 まあその龍樹の言ったことを後の人が理解できなかったから、世俗諦で空を理解しようとして、テーラワーダからははずれてしまった。私のような論理のド素人が言っても説得力が無いだろうが、世俗諦の中で空suññaを語ろうとすると、「絶対に」矛盾が起きる。もし矛盾が起きていないのだとしたら、それはその論理を見ている人が何か見落としている証拠だ。なぜそう言えるのか。

 皆さんは、宇宙がある、と思っているだろう。何を隠そう、なんと私もそう思っている(笑)。だから、宇宙、という範囲は知っている。しかし、その中身はほぼ誰も知らない。しかし、宇宙という「範囲」は知っている。論理としては、そういうことだ。世俗諦という範囲、限界はわかる。しかし、その中は「無限」なので、なにがあるかはわからない。何しろ「無限」だから。

 お釈迦さまが言うだろう、「ここに森があります。私は一枚の葉を持っています。さて、私が持っている葉が多いか、森にある葉が多いか。私が教えたのはこの私が持っている一枚の葉くらいなものです」と。これはそういうことだ。解脱に必要なことは説いた。しかし、世俗諦になにが存在するかなんて、これっぽっちも私は説いていない、と。

 

 スマナサーラ長老が言う、「無価値」というのは、この空性のことだ。勝義諦から見たら、なにも価値はない。諸法無我の「法」を、お釈迦様の「法」と取って、「すべて空だ」と言っても構わない、涅槃に入ればお釈迦様の教えも空なのだから。しかし、涅槃には、勝義諦の理解無くしては、即ち世俗諦と勝義諦の区別ができないのに入ることなどできない。それまでは、法を空にしてはいけない。また、お願いだから長老の言うことを真に受けて、「世の中にはすべて価値がない(だから厭世的なのが正しい)」みたいに言うのは、そろそろやめていただきたい。分かっている人が言うのならOK、分かっていない人が言うと、ちょーイタイ。ここのところ書いているように、まずは不貪と瞋の違いくらいは分かってからにしていただきたい。

 

 さて勝義諦では空、ということがわからずに世俗諦で空を理解するから、何か新しい発見をしても、無限に矛盾は生まれ続ける。大乗仏教的に、お釈迦様の手のひらの中だった、としてもいいし、同じところでぐるぐるしている、スマナサーラ用語でこれを「無知」と言ってもいい。


 先ほどなぜ西澤先生の本の続きまで引用したのかと言えば、例え涅槃を体験しても、またそれを理解(解釈)するのにまでも、結局は世俗諦を用いてしまわざるを得ないからだ。

 ここでとんでもないこと(笑)を言うが、こうして言葉を規定しておかないと、例え涅槃に入った本人たち同士でも細かいことを共有するには困難を伴う。境涯は似たようなものなので話は合うだろうが、果たしてどこまで突き止めても同じ境地にまで達したのだろうか、という共有は難しいものとなる。正自覚者どうしなら話は別だが、教義上それはあり得ない(神通で作らない限り)。

 

引用引用引用引用引用引用引用引用引用

 

無我随観anattānupassanā → 空解脱Suññata vimutti
無常随観aniccānupassanā → 無相解脱Animitta vimutti
苦随観dukkhānupassanā → 無願解脱Appaṇihita vimutti

 

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 「私は苦を見て解脱しました」という人と「私は無常を見て解脱しました」という人の涅槃が同じものなのか違うものなのか、区別が難しい、または最悪、苦を見て涅槃に至った人と無常を見て涅槃に至った人、それは違うものだということになりかねない。そのために、テーラワーダではいろんな言葉で同じ(ような、または同じ)ことを説明したりする。西澤先生の本の続きにも更に21種類、書いてある。私にはまったくわからないが、人によっては無常を見てしか悟れない、無我を見てしか悟れない、とかあるのだと思う。恐らく全部できるのは独覚仏陀からだろう。

 

 こういうことがわかっているのであれば、寂止隨念upasamānussatiを「施設である」涅槃でやっても構わない。そうでないと、涅槃は極楽浄土であるとか、または虚無の世界であるとか、それを対象に冥想してしまうととんでもないことになる。ほんとうの、勝義諦である涅槃を対象に冥想できるのは、阿羅漢に至った方が果定に入る時だけだ。

 


 なんか思いついてしまったので。

 

 空suñña。

 

 なぜ「無い」と言わないのか。

 

 人には、おそらく生物には、「無い」という認識ができない。

 

 「無い」というのは、例えば今までここにリンゴがありました、それがなくなりました、だからリンゴが「無い」。

 最初からリンゴが無ければ、「(リンゴが)無い」とは言えない(「(りんご「も」)無い」とは言えるかも知れない)。いや、もしかしたら実践によってそういう認識は得られるかもしれない。論理的にその方法まではわかるが、ではそれを実証してみよう、とは思わない。なぜか。その先がわかっているからだ。

 

 次は、リンゴという概念が「無い」でもいい。そうすると「(〇〇〇が)無い」と言えなくなる。しかし、こうなっても、いつまで経っても「(〇〇〇が)無い」という認識が「ある」ことからは逃れられない。だから、非想非非想処、なのだ。あれは凄い。禅定に入っている時には、想があるとも言えないし、では非想か、というとそれが「ある」とも言えない。もう限界状態だ。非我とか言っている人は、ここまでわかって言っているのだろうか。わからない…

 まあとにかく非想非非想処定に入っている時には、もう想が「無い」と言ってしまって別に構わない。しかし、色が無い施設を対象にしたからといって、結局ただ「無い」という世界を体現したわけではない。少なくとも禅定から出れば、想は普通に働きだす。輪廻が無い前提であれば非想非非想処定に練達した人は死ねば解脱する、と考えられるかもしれないが、結局過去世が見えて色界梵天程度の世界は分かっている人でも、無色界梵天の世界までは認識できなかった。

 

 何が言いたいのかというと、無想無無想処とは日本語でも言わない。きっちりと非想非非想処と言う。そこまでわかっているのに、なぜ大乗仏教の学者は非我とか言い出すのか。結局、想の滅も涅槃、無余涅槃で得られる。以前書いたように、無色界と同じで、無想有情と行っても、想が完全に無い世界、というわけではないのかも知れない。普通は「無い」と言ってしまって構わないが。

 

 というわけで、そんな話はお釈迦さまが現れる前に解決済みの話なのだ。それを掘り返して、なんになろう。saddhāが無いから、「お釈迦さまは完璧ではなかった」と言ってしまって、教えを「改悪」してしまう。そうでなかったら、「伝えている段階で改変されてしまっている」と主張する。スマナサーラ長老の話を聞いただけでも、「教えは連綿と変化せず伝えられてきている。その証拠に、論理的に破綻がない」とわかるはずなのだが。「伝えている段階で改変されてしまっている」と言いながら改変しているのは、一体誰なのか。

 

 まあ仕方がない。本当は理論上あり得ないことなのだが(それを成し遂げてしまったから「正自覚者」なのだ)、完璧なものが現れたらそれをずーっと維持、ということは無理だ。となると、あとは「悪くなる」しか方向が残されていない。そう取ってしまうことを、誰が責められよう。「完璧」という概念が我々にはないのだから。

 そういえば、「私は五戒を守ります」と言った少女にお釈迦様が負けた、という話をご存じだろう。あれは方便だ。そうでもしないと彼女の社会的な立場を上げることができなかったからだ。超絶智慧がある人だからといって、他人に対してなんでもしてあげられると思ったら大間違いだ。お釈迦さまですらこのエピソードに於いてはこれが限界だった。ここらへんも、大乗仏教は「民衆救済」とかいって不可能なことを言っている。少しでもカウンセリングや悩み相談などをなさっている大乗仏教のお坊さん方なら身に染みて感じていることだろう、「他人を救済するなんてほぼ不可能だ」と。能力のある人なら人をある程度良い方向に導いていくことはできるし、もしかしたらスマナサーラ長老くらい智慧があればちょっと何か言っただけで、または言い争いをしただけで、預流果にくらいさせられるほど力はあるかも知れない。しかし、それだけだ。その人の社会的な立場を上げられるのか、お金持ちにさせてあげられるのか、となると、それは無理だ。それは業だから。そういえば慈悲喜捨の捨では「人(生命)はそれぞれの業で生きる」という見方をすることもある。

 

 テーラワーダ末法思想は無いが、仏滅後状況は悪くなっていく、という考え方はする。まあこれも考えてみれば当たり前だ。徳の高い人たちはお釈迦様の時代に生まれて、お釈迦様に直に教えを聞く業を持っているはずだ。現に舎衛城の人口の3/4は預流果に悟っていた、と言われる。その在家たちはアビダンマなんて聞いたこともなければ、経典の「比丘たちよ」などとお釈迦さまが呼びかけたものなどはまったく耳にしたことがない。しかし、預流果だ。

 

 テーラワーダでは、こう言う。「正しい教えを聞くにも、(前世で積んだ)徳が要る」。

 

 

 アニメ好きなら知らない人はいない彼。彼の動画を見ていて思った。信saddhāとはこういうものなのではないか、と。

youtu.be

 彼の恐ろしいまでのゲーム愛、それがここまでの奇跡(?)を起こしてしまうのではないか、と。

 彼の前でゲームに関していい加減なことを言ってみたとしよう。別に怒りではなく、その10倍マニアな知識が返ってくるだろう。

 知識、経験の量もそうだが、ここで一番大事なのはゲーム「愛」。

 

 スダンマ長老にこんな例えを出して言ったら怒られそう(笑)だが、テーラワーダにおいて信saddhāはお釈迦様に対して。なぜか。上に書いたように「完璧」だから。他の、例えば大阿羅漢に対しても、礼拝はするが、信仰はしない。正自覚者のように完璧ではないからだ。

 

 因みに、独覚仏陀には信仰する、と言っても良いようだ。富士スガタ精舎の日常読誦経典にこうある。

 

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buddha-dhammā ca pacceka-

buddha-saṅghā ca sāmikā,

dāsovāhasmi me tesaṃ

guṇaṃ ṭhātu sire sadā.

 

佛陀、法(ダンマ)、独覚佛陀、

僧伽(サンガ)が私の尊師です。

この四つの宝に私は仕えます。

いつも頭にその徳がありますように。

 

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 結局、仏法僧と独覚仏陀に対して信仰する、ということだ。この場合、僧というのはお釈迦様から続いている僧団、僧伽のことで、僧個人のことを指すわけではない。現にスマナサーラ長老も言うでしょ?saṅghaṃ jīvita-pariyantaṃ saraṇaṃ gacchāmi.って。あれはお坊様である自分に帰依するとかそういう話ではなくて、教えを守り続けている僧団、僧伽に帰依します、という意味だ。

 

 しかし、「独覚佛陀になる」とは誓願しないでください、とは言われる。

 

 テーラワーダの国々では、善行為は皆でするもの。お食事のお布施など寺に行ってする善行為は誰かを誘って来るのが普通。しかし時々一人で来たりすると、お坊様に「独覚佛陀になるつもりですか?」とか嫌味を言われる(笑)。

 

 今の日本では、一人ででもどんどん寺に行く方が良いに決まっている。

 

 テーラワーダは師匠(長老、テーラ)から教えが伝わるので、師匠、大師匠を尊敬するのは当たり前だ。しかし、やっぱり「師匠」と言ったら、お釈迦様一人だ。その教えを伝えるので、師匠に尊敬する。今はわからないが、もともとインド文化では先生を大変大事にする。自分が教えを受ける人を尊敬しない人は、その教えが身に付くはずがない。

 

 しかしこの師匠を選ぶのも大変だ。スリランカでもよくある話らしいが、やはり厭世的な生活をしているお坊様は大変尊敬を集めるそうだ。どうしても町のお坊様はそれに比べるとちょっと低く見られがち。しかしそういうお坊様がいないと仏教が維持できないし、なので町から離れて修行されているお坊様も修行ができない。しかしそういうお坊様は大概在家を相手に教えを説いたりしない。そういう人ではないから、またはそういう段階ではないから、町から離れて修行されているのだ。

 

 お坊様にもいるのかはまったくわからないが、世の中にはそういう風に「見せる」人もいる。そんな人は、まじめに修行している人が見ればすぐにわかるが、そんなことを指摘して「嫉妬している」とかいわれたらめんどくさいのでそういうことは言わない。

 

 聖者とかすごい師匠というのは、意外に身近にいるのかも知れない。しかし、めんどくさい人が来るのは大変嫌がるので、大概自分からは宣伝しない。