さくらぎ瀞がわかる範囲の(スリランカの)テーラワーダの教え

スダンマ長老の弟子(在家)がつぶやいてみる。(只今休止中です)

アビダンマ(略)の読書感想文13

 今日もこの2冊にお世話になります。


・アビダンマッタサンガハ 南方仏教哲学教義概説
 監修 水野弘元、訳注 ウ・ウェープッラ、戸田忠
 アビダンマッタサンガハ刊行会


・アビダンマ基礎講座用テキスト
 ウ・コーサッラ西澤


 さあいよいよ心所だ。

 といっても、結局はここを読めばわかるので、読んで覚えてね、と言いたいだけだ。全部覚える必要もないが、なんとなくでも、用語だけでも頭に引っかかるようにしておくだけでまったく違う。

 

 47頁。

 

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思 対境に心心所を発動させること。

 

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 ん?

 

 西澤先生の本、14頁。

 

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4.思(し)cetanā 所縁に相応法を向ける特相をもつ法

 

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 んん?

 なにを言っているのかわからない(笑)。

 

 なにかに対して心(ここでcittaとすると後で問題が起きるからこういう言い回しをしているのだろうが、ここでは一般的な「こころ」と取っていただきたい)を向ける働き、と理解すればいいのだろうか。

 思cetanāが業kammaだという。kammaとは、英語だとactionとか訳されることもある。行為?

 

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一境性 一所縁に心を専注すること。

 

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 そうだったのか。今まで一境性とはなんなのかよく知らなかった(笑)。

 まあ禅支の最後まで必要なものなので、当たり前と言えば当たり前か。第五色界禅定にも、無色界禅定にも要る。

 

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命根 心心所を、維持・存続させること。

 

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 いくら細かい私と言えども、ここまでは思いつかない。心、心所を維持させるためにはなんかその要素を設定しとかないとまずいんじゃね?という話だ。しかもそれだけならまだしも、後で色と対応させてくる。私はアビダンマのこういう所が大好きだ。

 

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作意 心心所を警覚させ、所縁に向かわせること。

 

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 作意manasikāra。

 皆さんもよくご存じの如理作意yonisomanasikāra。私は気になって、マンガラ長老に訊いたことがある。「manasikāraとyonisomanasikāra。どういう関係なのか?」と。答えはこうだ。「manasikāraはmanasikāra。yonisomanasikāraはyonisomanasikāra。」それだけ(笑)。

 解釈は二つある。manasikāraとyonisomanasikāraは関係がない。もうひとつは、yonisoとmanasikāraとわけたところでどうにもならない。私は後者ではないかと考えている。


 書くことがないので(汗)、戻って心所相。

 

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心と相応するしるし(lakkhaṇa)を心所相といい、それには次の4相がある。
同起 心が起ると同時に起る、
同滅 心が滅すると同時に滅する、
同所縁 心が所縁としているものを同じく所縁とする、
同基 心が所依とする基を同じく所依とする。

 

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 この私をしてもテーラワーダは細かいなぁ、と思う所だ。私レベルでは「こんなの当たり前なんじゃないの?わざわざ言わなきゃいけないこと?」と思ってしまうが、こういうことをしっかりと定義しておくことは大事だ。

 そして、同起だけでなく、同滅までを定義する。こうなってくると同住があってもいい気がするが、同所縁と同基がある時点でそれは必要がない。細かいが、それでいて余分なことは一切排除されている。こういう発見が、アビダンマ、またはテーラワーダを勉強しているとたまらなく楽しい。

 とこのように、アビダンマッタサンガハは色んな要素が絡んで成り立っていることがわかっていただけると思う。だから、「まずは暗記」なのだ。まず用語だけでも覚えておかないと、分析のしようがない。

 

 皆さんはスマナサーラ長老の説法をご存じだろう。「専門用語を使わず」とご本人も言っているが、その実内容には今まで大乗仏教にすら縁がなかった人にも仏教用語を覚えさせてしまっていることにお気づきだろう。内容には方便も含まれるが、あれはとんでもない話だ。自分の悩みは何とかしたいが、正直テーラワーダにはそこまで興味のなかった人も多いと思う。しかしその人たちにまで、仏教用語まで覚えさせてしまう。あの名人芸には憧れるが、私は絶対に法話などしたくない。

 

 長老は名古屋で言っていた。「憧れている時点で才能が無いのです」。才能が無くて良かった。やはり名人芸は、鑑賞するに限る。自分がやるとなると、とんでもない苦労をしょい込むことになる。

 

sakuragi-theravada.hatenablog.jp

 

 名人は、理由があってそういう言動をするのだが、素人には理由がわからないから皆勝手なことを言う。もともと私などは実力もないから関係がない話だが、その忍耐だけでもすごいなぁ、と思う。