さくらぎ瀞がわかる範囲の(スリランカの)テーラワーダの教え

スダンマ長老の弟子(在家)がつぶやいてみる。(只今休止中です)

アビダンマ(略)の読書感想文12

 今日もこの2冊にお世話になります。


・アビダンマッタサンガハ 南方仏教哲学教義概説
 監修 水野弘元、訳注 ウ・ウェープッラ、戸田忠
 アビダンマッタサンガハ刊行会


・アビダンマ基礎講座用テキスト
 ウ・コーサッラ西澤


 44頁。

 数だ。飛ばす(笑)。


 まあとにかく心というのは89、または121あるよ、ということ。

 出世間心を8と数えるか(色界)禅定と対応させて8x5禅で40ととるか、の違い。

 頁が戻るが、40頁で、

 

引用引用引用引用引用引用引用引用引用

 

果心4

預流果心、一来果心、不還果心、阿羅漢果心、以上、これらを四つとも、出世間異熟心という。

 

引用ここまで引用ここまで引用ここまで

 

 とある。

 ということで、以前書いた疑問、異熟というのは来世にしか現れないのか、という疑問にここで解決がつく。来世にしか現れないのであれば、今世で預流果になる徳を積んでも絶対に今世では悟れない、ということになる。結果、預流「果」になるのは来世になってしまう。預流果になる徳を前世までに積んでいることが絶対条件にはなるが、それだけとなると今度は今世はなにをしていても預流果になる、ということになってしまう。預流果になる徳は持っていて、その上で今世で修行をして一定(人によって違うが)の徳を積んだところで預流「果」心という異熟が現れる、ということだ。

 

 つまり、異熟は今世にも現れる、ということだ。

 

 これは後の路で出てくる話だが、今世での強い業は今世にも結果を出す。私は業については何も分かっていないから間違いかも知れないが、勉強して頭が良くなりました、というのも結局は業だ。しかしアビダンマでは善業か悪業かを気にするので、そこには入らないかも知れない。知識が増えたところで、ただそれだけではなんとも善業とは言いにくい。

 世の中にはいろんな人がいる。知識をものすごい持っているがバカな人もいれば、知識については「大丈夫か?」というくらい持っていないがずばりと鋭いことを言う人もいる。この場合、鋭いことを言う人の方が「善」と言える。結局は心が善いことを思っているかどうか、ということだ。正直能力は「あまり」関係がない。だいたい世界で問題を起こしている人は知識もあるし能力もある人たちだ。知識も能力もない人にはそれだけの影響力を行使する場面が無い。


 というわけで、心は終わり。

 

 46頁にまたわかりやすく表にしてくれてある。

 これを見ると非常にわかりやすい。不善心12に対して浄心24、そのうち善心は8。これだけ見ると善心の数が不善心より少なかったから有因異熟心と唯作心を足して24にしたような気がしなくもないが、色界心と無色界心、出世間心を加えると59にもなるので、結局は「善い心の方が数も多いよね」と言える。40ととると91。

 


 47頁。

 

 心所。

 

 どちらかというと、こちらの方が大切だ。コーサッラ長老が教えていた時にも、心所ばかり確か5回くらいやっていた。その後、脱落した人が多かった。

 私はそんなのどうでもいいから早く先をやってほしかった。いつ死ぬのかわからないのだし、とにもかくにも一通りやらないことにはアビダンマッタサンガハの全体像が見えてこない。相当イライラオーラも出していたに違いない。現に、大変不機嫌だった。「そんなのもうわかったから早く先をやってくれ。」と。早く三回通りやってくれよ、と。

 まあしかし、それで正解だったのだろう。今になってわかる。心所は、別に理解しなくても、なんとなく用語だけでも覚えておくだけで非常に役に立つ。というか、この基礎知識だけはないと、テーラワーダの話についていけない。


 ここで一つだけ先に進んで書いておきたい。

 49頁。

 

引用引用引用引用引用引用引用引用引用

 

念 仏法僧などの善に関することを念じて忘れないこと。不善に関して念じるのは、正しい念ではなく、邪な念である。具体的には、想が主となる不善心心所である。

 

引用ここまで引用ここまで引用ここまで

 

 西澤先生の本にもこうある。

 16頁。

 

引用引用引用引用引用引用引用引用引用

 

sati 仏法僧などの善い所縁に対し相応法を忘れさせない特相をもつ法

 

引用ここまで引用ここまで引用ここまで

 

 気づきがどう、とは一言も書かれてない。まあ「善に関すること」なので、不貪不瞋不痴に関することを念じて忘れなければ「念」ということだが、「仏法僧などの善」に関すること、仏法僧の徳に関することを念じて忘れないこと。「仏法僧などの善い所縁に対し」。「などの」。

 

 スマナサーラ教とテーラワーダは違うよ、ということだ。


 プラユキ長老のtwitterにこうあった。

 

 

  スダンマ長老もおっしゃる。「十波羅蜜を実践するには、そのどれにも、方便が必要だ」。信があるとどれが方便かわかるのだが…