さくらぎ瀞がわかる範囲の(スリランカの)テーラワーダの教え

スダンマ長老の弟子(在家)がつぶやいてみる。(只今休止中です)

アビダンマ(略)の読書感想文7

 いつもこの2冊にお世話になります。


・アビダンマッタサンガハ 南方仏教哲学教義概説
 監修 水野弘元、訳注 ウ・ウェープッラ、戸田忠
 アビダンマッタサンガハ刊行会


・アビダンマ基礎講座用テキスト
 ウ・コーサッラ西澤


 30頁。

 欲界浄心のうち大善心が8、喜倶と捨倶、無行と有行、智相応と智不相応で8つ。

 

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〈智相応心の起る理由〉2.無瞋梵界への往生(abyāpajja-lokūpapatti)色界では、気候の良いこと、五欲を離れていること、瞋恚の無いこと、などによって智相応心が増大する。

 

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 色界では、気候が良いことによって智慧が増大するそうです。どういうことだろう…

 たしかにこの世でも、天気が良いと気分が良い。そういうことで良いのだろうか?

 色が地水火風という話を前にしたが、テーラワーダでは地水火風で性格を分けることはしない。飽くまで性格は6つの性caritaで判断する。

 こんなこと言ったら皆に怒られそうだが、実はこれは占いそのものだ。占いというのは、まじめな人がやっていると、実に役に立つ。しかしすべてそれに依存してしまっては自分を見失ってしまうし、テーラワーダから見て「そこはどうだろう」ということを言う個所も多い。が、そこが取捨選択できるようになると、非常に参考になる学問だ。

 占いでは、地水火風で性格も見る。中国系だと五行、木火土金水。アーユルヴェーダではトリ・ドーシャ、空を入れてパンチャ・マハー・ブータ。医術の判断でも大変重要な要素だ。

 といっても私もまったく詳しくないので詳細は避けたいが、身体の質が水寄りだと、逆に天気が悪いときに気分が良くなったりするのだろうか?

 地水火風のkasiṇaをすると大念処経の身隨念にある四界分別にも役に立つし、実生活で、例えば暑いときには水、寒いときには火をすれば、暑さ寒さから体を守ることができるらしい。

 しかし、アーユルヴェーダでもトリ・ドーシャのバランスが重要で、どれかが強くなりすぎても問題が起こる。これは漢方でも同じ。だから地水火風のkasiṇaは気を付けた方が良いんじゃないのか、と疑問に思ったのでスダンマ長老に訊いてみたら、「関係ありません。」と言われた。

 

 地水火風、それに空と光明を入れたkasiṇaは、どのcaritaの人にも推奨される。細かいやり方についてはどうもお坊様によっても言われることが変わったりすることがあるようだが、これは何度も書いている通り、受ける方によっても変わるのかも知れない。お坊様は別に「あなたにはこの方法があっていますが、別の人には別のことを言うことがあります。そういうことですので、あなたはこのやり方でやってください」とはいちいち言わない。もし有名なお坊様がそんなことを言ってしまったら、「私はあのお坊様にこんなことを言われた!」といって執着しまくってしまうこと請け合いだ。これではまずいので、お坊様はたとえ正解が分かっていたとしても、その伝え方に細心の注意を払う。どちらかというと、その方がよっぽど難しい。それこそ性格が読めないと、後々面倒なことになる。軌道修正は早い方が良い。できれば軌道修正は、させない方が楽だ。これが冥想指導の難しさであり、説法の難しさでもある。そんなことが見えてくると、とても怖くて冥想指導なんてやってられない。

 しつこいようだが、そちらに比べ、自分だけが真理をわかることは簡単だ。「比べ」だが。自分がわかっていることを伝えるだけなら、まだ楽だ。問題は、相手のためになるように相手に伝えることだ。これは非常に難しい。相手のすべてを見ることなんて正自覚者じゃないんだから諦めて、それでもできる限りで相手のことを見て伝えるべきだ。

 

 しかしそんなこと言っても、我々はそんなことはできない。ではどうするのか。信saddhāをもって、そして慈悲の心をもって、伝えるべき時であれば相手に伝える。伝えるべき時でなければ、相手に伝えない。これしか、ない。

 私には経験がある。

sakuragi-theravada.hatenablog.jp

ここで言っているのは、そういうことだ。なぜかわからないが、寺によく行っていると、振り返ってみて自分の行動は正解だったなあ、と思うことが多い。行動している時、自分ではわかっていない。これこそが宗教的な力で、信saddhāというスピリチュアル的な力だ。私がここのところ信仰について強調している理由は、これである。

 三木教授がいらした時、スダンマ長老が言っていた。「インド文化ではこう言います。動物と人間の違いとは何か。食って寝て遊ぶのは変わりません。人間には宗教がある、動物には無い」と。そういう面から見ると、日本の「無宗教」というのは相当奇妙に見えるらしい。ま、無宗教という宗教と考えれば、納得がいく。他にも、「科学的」という宗教、とか。

 

 日本で宗教、というと、縋る、というイメージが強いのかも知れない。以前人に言われたことがある。「私は弱くないので、宗教はやりません。」と。何物にも頼らない、という強い心は羨ましいが、稀代の宗教家であるスマナサーラ長老を見て、弱い、と思う人がいるか?あれが、「私は弱いのでお釈迦様にすがります」と言って修行を続けて来た人の成れの果てに見えるのか。

 

 以前も書いた通り、テーラワーダはスパルタだ。実のところ途中で挫折しても、助けてくれない。「ああそう、挫折したの。ふ~ん」で終わりだ。信saddhāが強くなると、なんかより困難な場所へ連れていかれるような気がしてならない。そして、私はビビリなのでとにかく逃げ道を探したがるのだが、まあ見事にすべてふさがれたりする(笑)。

 

 そういったわけで、実感としてテーラワーダの宗教的な力を体験している。個人的な印象なので「そうじゃないんじゃないの?」と思っていただくのは自由だが、私としては明らかに信仰の力はあると思っている。

 そして、これは恐らくほかの宗教でも変わらない力ではないかと思う。

https://tipitaka.org/romn/cscd/s0301m.mul10.xml

itipi so bhagavā arahaṃ~の出典元であるdhajagga suttaで言っているのは、このことだ。

「他の神々を念ずると、恐怖が消えることもある、消えないこともある。なぜか。その神々は恐怖を滅尽したわけではないからだ。」

 しかし、テーラワーダとしては、真理に到達したお釈迦様を信じている、真理の力は一番強い。だから最強だ、というわけだ。こういう言い方は嫌われるかもしれないが、スピリチュアルの巨人と言えば、お釈迦様だ。

「お釈迦様を念ずると、恐怖が消える。なぜか。お釈迦様は恐怖を滅尽したからである。」

 

 以前スガタ精舎にマンガラ長老がいらした。私の拙い英語に合わせて色々教えてくださったが、その時「真理の力は一番強い」とおっしゃっていた。まだまだ私には、その言葉は信じられなかった。世の中では、嘘やごまかしの方が強いことがあるのではないか、と思っていたからだ。しかし今では、「確かに真理の力の方が強いのではないか」と思い始めている。