さくらぎ瀞がわかる範囲の(スリランカの)テーラワーダの教え

スダンマ長老の弟子(在家)がつぶやいてみる。(只今休止中です)

アビダンマ(略)の読書感想文29

 今日もこの2冊にお世話になります。


・アビダンマッタサンガハ 南方仏教哲学教義概説
 監修 水野弘元、訳注 ウ・ウェープッラ、戸田忠
 アビダンマッタサンガハ刊行会


・アビダンマ基礎講座用テキスト
 ウ・コーサッラ西澤

 


 こちらの西澤先生の本、こちらにあった。

liberi.jp

 もしまだ持っていない人がいたら、是非。そちらのものと私が持っているものとが違うところがあるかは確認していないが、恐らく一緒だと思う。

 

 音声も是非。私はちょっと録音の関係で…

 


 60頁。

 

 摂め方。

 

引用引用引用引用引用引用引用引用引用

 

今度は心の側から

 

引用ここまで引用ここまで引用ここまで

 

 もう勘弁してください…

 

 まあ仕方がない、これをやらないとアビダンマはわからない。

 

引用引用引用引用引用引用引用引用引用

 

〈無量が除かれる訳〉心心所が相応するためには、所縁が同じでなければならないが、無量は有情施設を所縁とし、又出世間心は涅槃を所縁とする様に両者の所縁は異なっているから、無量心所と出世間心は相応できない。

 

引用ここまで引用ここまで引用ここまで

 

 このブログでも何度も言っているように、涅槃は施設ではない。真理とは、勝義諦、即ち施設ではない。無量心(所)は施設を対象にするから、それに対し出世間心は対象を涅槃とするから、施設を対象にする心所は発生しようがない、ということだ。

 

 このアビダンマ的観点からすると、預流果になる時も涅槃を見る、ということになる。実際コーサッラ長老に訊いたら、ここは「涅槃のレベルが違う」という言い方をしていた。

 

 しかしスダンマ長老に訊くと、「涅槃は阿羅漢にしか見えない」という。

 

 これは長老個々の見方というより、「論」の国ミャンマーと、「経」の国スリランカの見方の違いのようだ。

 

 この引用部分にもあるように、「出世間心は涅槃を所縁とする」とabhidhammattha-vibhāvanīに明記されている。しかしこれは副注釈書だ。

 

 では三蔵ならどうなのか。

https://tipitaka.org/romn/cscd/abh01m.mul0.xml

 これが三蔵のうち、論蔵、即ちアビダンマの始めだ。

 

 どうだろうか?不親切極まりないだろう(笑)。

 

 何が書いてあるのかというと、善の法、不善の法、無記の法。それだけ。ま、そのようにただなんとかdhammaが羅列してあるのがわかるだろう。

 

 そして、その説明が始まるが、とてもではないが、親切とは言い難い。

https://tipitaka.org/romn/cscd/abh01m.mul1.xml

 

 そして、そのアビダンマの注釈書の注釈書、即ち副注釈書である、アビダンマッタサンガハ。

https://tipitaka.org/romn/cscd/abh07t.nrf0.xml

 ずいぶん親切に見えるかも知れないが、結局これも羅列してあるだけ。前にも言ったように、いつもお世話になっている本は、これにわざわざ注釈(副注釈書のもの)を入れてくれている。大変親切だ。アビダンマッタサンガハのもとの文章は、この本の太字の部分だけだ。

 

 私は引用文に、意図的にそのアビダンマッタサンガハの部分を入れていない。このブログで勉強されては、たまったものではないからだ。どこで間違いがあるか、わかったものではない。

 

 だから、あれだ、私にはよくわからないが、ドラマとかアニメとかでよくある、学校の友達同士の中でちょっとその教科が得意な奴が「これはこういうことだよ~」なんてノリでただ勝手なことをしゃべっている、そんな捉え方をしていただけたら幸いである。

 


 さて、終夜読経というのはスリランカ独特の習慣で、あれで唱えられる護経はすべてスッタニパータの中だったり、長部経典の中にあったりするものだが、4つの法門catu-bhāṇavāraといって、独立してまとめられている。そして、catubhāṇavāraṭṭhakathāとして、また別に、注釈書がある。

 

 ここを見ればわかるが、注釈書というのは、三蔵のそれぞれのお経(ここで「経」というのはまずいかもしれないが、まあ言いたいことはわかっていただけるだろう)にそれぞれ注釈がある。それとは別に、またcatubhāṇavāraṭṭhakathāがある、ということだ。

 

 私はこの4つの法門が大好きで、もちろんスダンマ長老もそれをご存じなのだろう、catubhāṇavāraṭṭhakathāという注釈書がありますよ、と喜んで教えて下さった。

 

 私も喜び勇んで、まあ日本語には無いだろうから英語、そうでなかったらせめてローマナイズされたパーリ語があるだろうと調べてみた。

 

 ら。
tipitaka.org

  ここにはなかった。

 

 ネット上にも、シンハラ文字版しかなかった。恐らく、英語版も存在しないのではないか。

 

 それをスダンマ長老に報告したら、たいそうがっかりされていた。ということは、それを訳してくれるとか、そういう気はないらしい(笑)。

 

 このサイトは、ミャンマー版をもとにローマナイズされているそうで、丁寧にシンハラ版はこう、と注釈があるが、残念ながら完全ではない。逆に、シンハラ文字版三蔵にもPTSはどうとか注釈があるが、おそらくあれも、完全とはいえないだろう。

 

 なにがか、というと、三蔵の教えの部分は、恐らく完全だと思う(正直に言うと、それにしても不親切だとは思うが)。しかし、暗記するとなると、教え「でない」部分が、気になる。例えば、初転法輪の神々の名前の部分は、ミャンマー版では梵天がまとめられているが、スリランカ版ではすべての梵天(当然無色界梵天は除く)について散文を繰り返す。

 

 何も知らない人がいきなりそれを見ると「国によって三蔵が違うじゃんよ!」となるが、そもそもパーリ語を読んでいる時点で素人ではないので、「教えには関係ありませんなあ」と、誰も気にしない。


 そして、これが日本語版の最大の問題点なのだが、第何結集だったかで、巻の数は決まっている。PTS版だとどう、とやたら書いてあるのはこれが理由なのだが、日本語版はこれが配慮されていない。それどころか、例えばジャータカなど、題名まで改変されていて、調べる時にほんとうに大変苦労する。

 

 しかしこれは上記のサイトでも同じようなもので(つまり三蔵は素人に優しくない、ということだな。うんうん)、やたらと略があることに気が付くだろう。pe…というやつだ。何度も言うように、こんなところを読むのは素人ではないのだから「そんなことわかるだろ?」というわけだが、完全にパーリ語がわかる前提で書かれている。暗記する最初なんて、パーリ語全然わかってないんですけど…

 

 そしてスリランカ版は、基本pe…しない。実は私はここはミャンマーでどうやるのか知らないのだが、スリランカではお坊様が亡くなった時(亡くなる時?)に大念処経を唱えたりするが、ここをpe…しないので、思っているより相当長い。春秋社版でもかっこ()で書いてあったりするのでご存じだろう。まああれはそれ以前の気がするが。

 

 で、終夜読経をするのはスリランカだけなので、タイの重要な儀式の時はスリランカからお坊様が呼ばれて終夜読経をしたりするらしい。

 

 参考までに、PTS版の方。

awake.kiev.ua

 基本的にPTS版はスリランカ版をもとに作られているそうだが、それにしても誤字が多すぎて…。しかもここは三蔵すら完成していない。

 


 ミャンマーは、パターン祭というのがある。5日だったか一週間だかかけて、発趣論、パッターナをすべて唱える。

 

 なぜパッターナなのかというと、仏教が滅びる時は一番難しい所から崩れていくから、そこを唱えることによって仏教が永く続きますように、という意味だそうだ。

 

 パッターナというのは、アビダンマッタサンガハが終わったら次にやるところで、それが終わればあとは自習できる、そうだ。

 

 これでわかっていただけただろうか、ミャンマーではパッターナというのは「一番難しい」とされているところで、しかしアビダンマッタサンガハの次に学ぶものである、とされている、ということの意味が。

 

 アビダンマッタサンガハを、完全とは言わないまでも、それなりに理解していないと、パッターナは絶対に理解できない。いいか、「絶対に」だ。間違っても、アビダンマッタサンガハを飛ばして、「そっちの方が難しいということは、そっちが分かった方が偉いんじゃね?アビダンマッタサンガハなんかけったるいものやってないで、さっさとそっちやろう」なんて思っても、理解不能だ。まあやりたい人はやっても良いが、くれぐれも独自の解釈で理解したものを人前で話すような恥ずかしいことはやめるように。これも、「独自に解釈できたら」の話だが。そもそも用語がまったくわからない。

 

 パッターナは、アビダンマッタサンガハのように甘くはない。

 

 

 まあこれは、ここまでのブログを読んでいただけるだけでもわかってもらえることだと信じている。なにしろこのアビダンマッタサンガハのやり方を踏襲した上で学ぶものなのだから、やり方自体に馴染んでおかないとほんとうにもうちんぷんかんぷんだ。

 


 まあそういうわけで、何が言いたいのかというと、「経」の国と「論」の国では、ちょっと考え方が違うところがあることがあるよ、ということだ。教え自体は変わらないが、その解釈の細かい所では、どうも違うところがあるようだ、と私は個人的に感じている。

 

 幸いにしてミャンマーのやり方とスリランカのやり方をそれなりに教えていただいた身として、「おや?」と思うことがあったので、書いてみた。


 しかし気を付けたいのは、それが「実は方便でした」ということがあったことだ。細かい話はまた長くなるので割愛するが、単純に言って、ミャンマーテーラワーダスリランカテーラワーダは仲が良くない(飽くまで在家の話だ。お坊様同士そう見えるのなら、それは方便だ。まったく皆がそう、というわけではないが)。しかし私はそんなことは構わず結構いろんなところに顔を出していたので、一方で吹きこまれたことを自信ありげに最初に披露したらお坊様にけちょんけちょんにされ、しかしそれは実は私にその場で思う存分発言させるためだった、ということがあった。まあそれだけ期待されていた、ということでもあるのだが、こういうテクニックは三蔵には勿論書いてないし、冥想してわかることでもないので、興味のある方はお近くのテーラワーダ系のお寺に通うことをおすすめする。スダンマ長老にも訊いたことがある。そういうテクニックはどうやって身に付けるのですか、と。そうしたらやはり、先輩のお坊様がやっているのを見て学ぶだけだ、と言っていた。法話の仕方というのも戒律があってそれを学ぶだけで、細かいやり方などを師匠から習うわけではない、という。

 

 まあしかしああいう時のお坊様は怖いですよ。というか、もう一方の方がそうなるように仕組んでるんですけどね。ああいう目に遭って、「もうあんな目に遭いたくない」と、色々調べるようになるんですよ。ね、スパルタでしょ?テーラワーダ、って。

 


 そういえば、あまり関係のない話かも知れないがそれで思い出したので。

 

 スマナサーラ長老は日本では大変有名だが、日本にいるスリランカ人にすら実はほとんど知られていない。ご本人も言うように、シンハラ語ではほとんど説法しないからだ(以前サンブッダローカ寺でシンハラ語で説法しているのを見たが、失礼ながら「ほんとうにシンハラ語しゃべれるんだ!」とびっくりしてしまった。綺麗なシンハラ語だった。もちろんその筋の人にはよく知られている)。冥想法がマハーシ、つまりミャンマー系であるということもその理由だ。逆に、スダンマ長老を知らない人はまずいない。スリランカ仏教界に大変顔が利く。

 


 いや、戒律の話をしようかと思ったのだが、さすがに時間だ。それでは。