さくらぎ瀞がわかる範囲の(スリランカの)テーラワーダの教え

スダンマ長老の弟子(在家)がつぶやいてみる。(只今休止中です)

アビダンマ(略)の読書感想文28

 今日はまたこの2冊にお世話になります。


・アビダンマッタサンガハ 南方仏教哲学教義概説
 監修 水野弘元、訳注 ウ・ウェープッラ、戸田忠
 アビダンマッタサンガハ刊行会


・アビダンマ基礎講座用テキスト
 ウ・コーサッラ西澤


 59頁。

 

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嫉・慳・悪作は二つの瞋根心に相応はしても、瞋根心の起る度に必ず相応するとは限らない。

 

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 これは以前に書いた通りだ。瞋根心に対応するとは言っても、いつでも起こるとは限らない。

 

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悪作は悪行を作した、善行を作さなかった

 

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 しつこいようだが、テーラワーダでは悪いことをした、といって後悔することも不善行為だ。戒律が守れなかった、といって悔いることも悪行為。世間では善行為と取られる所なので、ここは気を付けよう。

 

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慢も(略)不決定心所である。(略)五蘊を我であると驕り、高ぶり、それに強く執する時にのみ相応するのである。

 

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 まあとにかくアビダンマでは慢は五蘊を我であると思う時に発生することであって、これは見とは一緒に起こらない、ということだそうだ。

 

 見というのは有身見のことで、だから結局有身見があるから五蘊が我であると思ってしまうような気がするのだが、ご存じの通り見は預流果になると無くなり、慢は阿羅漢にならないと消えない。だからそこはもうすこしなにかが違うのだろう。もしかしたら私の、有身見の解釈が間違っているかも知れない。

 

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例えば、盗みをする時には惛沈・睡眠は相応しないで

 

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 なるほど、盗みをする時には頭は冴えている、というわけですな。

 

 確かに「ぼやっ」として盗みをする、というのはイメージしがたいものがある。ぼけーっとしているうちに盗んでいる、となると、これはもう相当な病気のような気がする。

 

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(惛沈と睡眠は)互いにその働き方は異なっていても、その対象は同じである

 

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 うん?どういうことだ?「対象は同じ」?

 

 続き。

 

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従って心か心所の一方だけにその働きが表れることはないから、常に共に働いているとされるのである。

 

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 心が対象としているものに対して「対象」と言っているのだろうか。心所が対象(を取るのか?)としているものに対して言っているのだろうか。しかし同起、同滅、同所縁、同基だから、心も心所も対象は同じだ。

 


 あ、いや、申し訳ない…(汗)。勘違いしていた。

 

 もう一度全文を引用する。

 

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例えば、盗みをする時には惛沈・睡眠は相応しないで、ぼんやりする時にのみ相応する。この様に相応する時には、惛沈は心を沈ませ、鈍くさせる心の作用であり、睡眠は心所を眠らせ鈍くさせる心の作用であって、互いにその働き方は異なっていても、その対象は同じである。従って心か心所の一方だけにその働きが表れることはないから、常に共に働いているとされるのである。

 

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 惛沈は心を沈ませる心の作用、睡眠は心所を鈍くさせる心の作用、とのこと。その働き方が異なる、ということですな。

 

 惛沈・睡眠があると、こういう所を見落とす。


 西澤先生の本の15頁にはこうある。

 

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惛沈 thīna 心が確(しっか)りせず、沈む特相をもつ法

 

睡眠 middha 心所が確りせず、沈む特相をもつ法

 

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 正直に言うが、私は心と心所の違いがよく分かっていない。アビダンマ上分類として分けてある理由はわかるが、まあこうやって説明する時に都合よく分けてある、ということだろう。実践的に心と心所の違いがいつか明確にわかるようになるのか、となると、私は疑問だ。

 

 アビダンマをやっていれば、実践していくうちに「あ、これは〇〇心所だ」とか「あ、これは〇〇心だ」とわかるのはわかる。しかしアビダンマをやっていない人は、そうは思わないと思う。

 

 例えば、「あ、これはケチの心だ」とか「これは欲の心だ」とかになると思う。しかし慳はアビダンマでは心所で、しかしケチは欲の心から起こることで、欲の心とは貪根心だ、などとは、アビダンマをやっていない人が突然思うとはとても思えない。但し実は前世のいつかでアビダンマを聴いていた業によって突然目覚める、という場合は除く(そんなことあるのかどうかはまったく知らないが)。

 

 しかし、なんとなく心というものがつかめてきて、特に禅定なんかに入ったりすると五禅支の関係で今まであったあれが無くなった、と実感できる。その時にアビダンマでは心と心所はわけてこうやって教えてあります、と初めて知ったとしたら、「おお、なるほど!アビダンマではそう説明しているのか。」と得心がいくものだ。

 

 というわけで、私としても、アビダンマは真理だとは思っているが、完全に真理か、と言われると「う~ん」と思ってしまうところもある。ただ、真理を説明する道具、としてはこれ以上ないものである、とは断言できる。

 

 つまり、例えば真理を体験した人がいたとしても、その人がアビダンマを体験するのか、アビダンマを発見するのか、というと、答えはNOだ、と言わざるを得ない、ということだ。だから後から真理を説明するために開発されたもの、ということだ。

 

 教義上、確かお釈迦様が天界にいる生命に真理を伝えるために教えたものをサーリプッタ尊者が聴いて、とかではなかったか。すまん、あまり自信がない…


 だから、アビダンマを勉強して悟る人も勿論いるかも知れない。しかし、悟った人皆がアビダンマを知っているかというと、そうではない、ということが言いたかったのだ。場合によっては、悟っているからといって、アビダンマが理解できるか、というと、それも必ずしもそうではないと言えるのではないか、と私は思っている。

 

 こんなことを言ったらまたお坊様方に怒られそうだが、私は皆が皆アビダンマをやる必要はないと思っている。しかし、テーラワーダについて公的に発言する人には、必ずアビダンマを勉強してほしい、というか必修だ。アビダンマをやれば、「こいつ、アビダンマをまったく理解できていない」とすぐにわかる。そうすれば、テーラワーダ的にアホな発言をする人に騙されることが無くなる。

 

 不思議なことに、修行をまともにされた方というのは、別にアビダンマなんか知らなくても、アビダンマと矛盾することは言わない。まあ当然と言えば当然だ、アビダンマ自体が真理を分析するために出来上がったものなのだから。

 

 しかし勉強する側としては、アビダンマをやらずに他人の発言を検証するのは難しい。というわけで、結局テーラワーダを勉強する人はアビダンマ(ッタサンガハ)を勉強してくださいね、という結論に至る。

 

 これからもよろしくお願い致します。