さくらぎ瀞がわかる範囲の(スリランカの)テーラワーダの教え

スダンマ長老の弟子(在家)がつぶやいてみる。(只今休止中です)

アビダンマ(略)の読書感想文16

 今日もこの2冊にお世話になります。


・アビダンマッタサンガハ 南方仏教哲学教義概説
 監修 水野弘元、訳注 ウ・ウェープッラ、戸田忠
 アビダンマッタサンガハ刊行会


・アビダンマ基礎講座用テキスト
 ウ・コーサッラ西澤


 もうなんだかアビダンマッタサンガハ専門ブログでもいいような気がしてきた。

 

 しかし何度も言うように、私はアビダンマをコーサッラ長老から一周と二、三回しか習っていない。スダンマ長老はアビダンマを教えてくれない。だから間違っている可能性が相当高いわけだが、間違いを見つけても「こいつバカだ」と思うだけにしていただけるとありがたい。ご指摘、ご意見ご感想はまったくお待ちしておりません。なにしろ質問などいただいたところで、書いた以上のことは何も答えられない。


 50頁。

 

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身軽安 受・想・行の集まり、即ち心所法の安らかなこと。ここにいう身(kāya)とは集合の意味である。

 

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 日本語で身というと肉体的な身体のことしか思い浮かばないが、kāyaの訳語としての身は、集合とかシステムとか、まあそんな意味だ。心所だから身、というわけではない。

 転法輪経の最後の神々の名前を読み上げるところのミャンマー版にbrahmakāyikā梵天の神々と(略して)出てきたり、相応部にgandhabbakāyasaṃyuttaガンダッバ(ガンダルヴァ、ガンダールヴ)についてのお経があったりする。興味のある方はこちら

https://tipitaka.org/romn/cscd/s0303m.mul9.xml

 ここにあるkāyaを「身体」としてしまうと、とたんに意味がわからなくなる。日本語訳でも大概kāya=身を踏襲しているので、出てきたときには気を付けよう。


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心軽安 心法の安らかなこと。掉挙が主となる不善心は落ち着かず不安であるが、軽安心所はそれら不善心に相応しないから安らかである。身軽安は受・想・行の不安を静め、心軽安は心の不安を静める。

 

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 身軽安も心軽安も浄心所だから、結局浄心にはすべて対応する。身軽安はあるが心軽安はない、という心はない。だったら別に一つにしてしまってもいいような気がするが、二つに分ける深いわけがきっとあるのだろう。今のところ私にはわかっていない。

 

 身軽快性と心軽快性、身柔軟性は読んで字のごとく。

 

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心柔軟性 心法の柔らかなこと。見・慢が主となる不善心心所は我見によって、誰をも尊重せず、高慢であり頑(かたくな)である。柔軟性心所はそれらの我見・慢などと相応しないから、柔らかである。身柔軟性は心所法の頑であるのを解消させ、心柔軟性は心法の頑であるのを解消させるのである。

 

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 テーラワーダをやっていて人と話をすると、正直困るのがここである。何度も言うが、お坊様は方便を使う。そこにとらわれず、先に進んでほしいのだが、「絶対的真理は固定」という概念に縛られまくってしまって、「スマナサーラ長老はこう言った」と話を聞いてくれない。まあ私のようないい加減な格好をしたおっさんに言われても説得力がないのは仕方がないが、まともなお坊様の言うことは是非とも聞いていただきたい。

 しかしやはり頭が固いのと高慢は結び付くのですな。今までの経験から、非常に身に覚えがある。

 

 身適業性と、

 

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心適合性 心法が心の作用に適していること。欲貪を主とする不善心心所は所縁に執着しているから、その反応が鋭すぎる。慢を主とする不善心心所は、所縁を取るのに頑であるから、その反応は鈍すぎる。故にこれらは所縁をとる際にはよく適応することができない。しかし浄心所は、それらと相応しないから鋭すぎず、鈍すぎず、よく適応する。身適業性は受・想・行の不適応を止滅させ、心適業性は心の不適応を止滅させる。

 

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 なるほど、この説明でよりわかりやすくなる。欲で対象を見るとそれは執着しているから反応が鋭すぎる、というわけだ。これは納得できる。年がら年中欲の対象のことを考えていれば、なにかあった時にものすごい速さで反応する、というのは理解しやすい。

 それに対応させるとすると、慢については今度は自分のことがあまりにも好きすぎて自分のことばかり年がら年中考えているから外の対象にはちょっと対応が遅れる、みたいなイメージでいいのだろうか。これがすべてとは思わないが。

 

 身練達性と、

 

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心練達性 心法が練られ、調えられること。不信が主となる不善心心所は、調えられていないから、所縁を捉える働きが十分とはいえない。浄心所はそれらの不善心心所に相応しないから、或る禅定に調えられている。身練達性は、受・想・行の集まりの不調を消滅させる。心練達性は心の不調を消滅させる。

 

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 「不信が主となる不善心心所は」。結局のところ、テーラワーダだって他の宗教と一緒だ(笑)。乱暴に言えば、「信のないやつには不善心しか生まれませんよ」と言っているようなものだ。

 

 昨日書いた、無我・非我の話もそうだ。ピアノを習っていない人に向かって「お前ピアノ弾けないんだー。バーカ、バーカ」と言ったところで、何の意味があろう。しかし、テーラワーダ仏教徒なら、あのくらいの話はわかってもらわないと困る。

 

 協会の日常読誦経典にこうある。もうだいぶ昔のものなので、もしかしたら今は訳が変わっているかも知れない。

 

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paññāvato ayaṃ dhammo, yāyaṃ dhammo duppaññassa;
この法は知恵のある人のものであり、無知な人のものではない。

 

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 日本のテーラワーダ界隈で問題を起こす人たちは、こういう人たちだ。尊敬すべき人たちを尊敬しない。お釈迦さまを尊敬する人は、それを伝える比丘サンガを軽視しない。勿論中にはろくでもないお坊様もいるそうだ。スリランカにも「私は正自覚者だ」とまで言うお坊様もいると聞く。私もさすがに納得がいかなかったのでスダンマ長老に訊いたのだが、「比丘サンガの一員(だと思って)に(在家が)礼拝するのだから問題ない。そのお坊様個人に礼拝しているのではなく、お釈迦さまが作った、連綿と過去現在未来と続く比丘サンガに対して礼拝しているのです」とおっしゃった。

 比丘の問題は比丘にまかせるべきだ。在家が口を挟んだところで、比丘の専門家でも何でもない。私も自分の専門分野で、ド素人に口を出されるほど頭に来ることは無い。理に適った意見なら勿論大歓迎だが、申し訳ない、私はそんな意見聞いたことがない。どれも、「そんなことは一番最初に考えて解決済みだ」という話ばかりだ。

 それを説明してわかってくれるのなら、別に良い。しかし残念ながら、そんな人も見たことがない。大抵逆ギレされて終わりだ。

 

 だから、昨日書いた話くらいの理解力だけは持っていただかないと、話ができない。以前も書いた通り、テーラワーダというのは恐ろしく難解だ。

 

 私は決して「簡単だ」と思っている人に対して「そうじゃないんだよ」と言いたいわけではない。しかし、もし泥沼にはまり込んでしまっている人がいたとしたら、また何かの因縁があってこんなブログにたどり着いてしまった方に対しては、正直にこう言いたい。

 

 「テーラワーダがわからないなんて、当たり前だ。そんなことを気に病む必要はない。」

 

 少し先の話になるが、52頁、〈想・識・慧の区別〉にこうある。

 

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以上述べた意味は、観業処を修習する瑜伽者に知られる想・識・慧の区別であるが、一般的な意味の区別によれば、識は所縁を獲得するだけであり、想は更にそれを見分ける働きをし、慧はその上、さらに正しく見分けることができるとされる。

 

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とある。

 

 この識は、五蘊とか十二縁起の識とはまったく違う。

 

 まったく違うのだが、別に同じととっても構わない。こういう所がわかってくるとテーラワーダが俄然面白くなってくるのだが、これは恐ろしく高度な話だ。こんなことがわからないからといって気に病む必要はない、ということだ。

 

 しかし、何度も言うように、昨日書いたくらいの話が理解できないのであれば、そこは是非とも気に病んでいただきたい(笑)。