さくらぎ瀞がわかる範囲の(スリランカの)テーラワーダの教え

スダンマ長老の弟子(在家)がつぶやいてみる。(只今休止中です)

アビダンマ(略)の読書感想文17

 いつもこの2冊にお世話になります。


・アビダンマッタサンガハ 南方仏教哲学教義概説
 監修 水野弘元、訳注 ウ・ウェープッラ、戸田忠
 アビダンマッタサンガハ刊行会


・アビダンマ基礎講座用テキスト
 ウ・コーサッラ西澤


 50頁。

 

 身端直性と、

 

引用引用引用引用引用引用引用引用引用

 

心端直性 心法のまっ直ぐなこと。誑(māyā)は、自己の悪を覆蔽して他を詭(いつ)わることであり、諂(sāṭheyya)は、自己に無い徳を有るように見せかけることであって、共に他人をごま化し、欺くものであり、具体的には、渇愛が主となる不善心心所である。しかし浄心所はその誑・諂と相応しないから、まっ直ぐである。身端直性は、受・想・行の誑・諂を止滅させ、心端直性は、心の誑・諂を止滅させるものである。

 

引用ここまで引用ここまで引用ここまで

 

 別にテーラワーダを持ち出すまでもなく、なるほど、と思っていただける項目ではないだろうか。

 あまり関係がないかもしれないがなぜかここで思いついてしまったので書こうと思う。

 

 歴史上世紀の大悪人のように語られる独裁者がいる。なぜ彼らはそうなれたのかと言えば、実は最初の頃は能力のある極めて優秀な政治家だったからだ。後から見れば大馬鹿みたいに語られることが多いが、ただのバカがそんな権力を握れるはずがない。しかし、あるところで自分の能力の限界を超えてしまう。それ以降、悲劇が始まる。勿論それ以前にもその萌芽はあるのかも知れないが、あるところまでで止めておけば、そこまでの大惨事にはならなかったはずだ。そこに関係してくる誑と諂。人によってその線は違うが、ある一線を越えたところで、誑と諂が暴れ出す。人の意見をよく聞く独裁者など、聞いたことがない。

 まあこの場合でも、一線を越えるころには既に本人の意志だけでは退くに退けなくなっているのだろうし、早めに手を打っておきたいところだが何しろ本人も国も、そういう独裁者の経験がないことがほとんどだ。その点小泉さんはすごかった(独裁者ではないが)。どんなに慰留されてもすぱっと辞めた。そんな立場になったこともない私が言うのもなんだが、ああいうことはほとんどの人はできない。

 

引用引用引用引用引用引用引用引用引用

 

〈軽安などの心所が、身・心の2となる理由〉心軽安によっては、心法だけが安らかになるが、心所法は安らかになることがない。しかし身軽安によっては、受・想・行の心所の集まりと色とが安らかになる。このように、軽安の働きには身と心との二つの領域が考えられるので、軽安は身軽安・心軽安の二つに分けられる。他の心所についても同様である。

 

引用ここまで引用ここまで引用ここまで

 

 abhidhammattha-vibhāvanī。先日の疑問の答えがここに書いてあるのだが、すみません、この説明では私ではなにもわかりません…

 しかしやはり身軽安性によって色、すなわち身体についても安らぐのであるから、身軽安性といっても、身体と全く無関係、とはここで言えなくなってしまった。

 やはり心と心所は同起、同滅、同所縁、同基ではあるが、別のもの、ということだ。私にはまったく区別がついていないからこの説明ではわからないのだが、もう少し勉強を進めていくと、またはもう少し冥想が進んでいくと、あるいはもう少し修行が進んでいけばわかることなのかもしれない。今のところ私にはまったくわからない。

 
 51頁。

 

 離心所3。

 西澤先生の本の17頁にこうある。

 

引用引用引用引用引用引用引用引用引用

 

身悪行3種、口悪行4種などを避けるという特相があるので離心所とよばれている

 

引用ここまで引用ここまで引用ここまで

 

 なるほど、この説明はわかりやすい。身口意の行為のうち、身口の悪行から離れるから「離」心所。よかった、これなら私にもわかる(ほっ)。

 ちなみにこれは細かい話になるが、テーラワーダで「口の行為」と言ったら、言葉のことだ。正確に言うとすると「身語意」とするべきだろうが、まあもうこの用語で普及してしまっているので、今更変えるのもなんだろう。「口の行為」というと食べるとかキスするとかが入ってくる。大概の人は「そんな細かい話、どうでもいいだろう!」と怒り出すだろうが、なんとこの話、発端は私ではない。スダンマ長老だ。

 

 kāyena vācā cittena pamādena mayā kataṃ,
 accayaṃ khama me bhante bhūri pañña tathāgata.

 

 kāyena vācā cittena、身口意。vācāは言葉。

 まあとにかく正語と正業は職業と関係しない、正命は職業と関係があるもの、と書かれている。

 私もよくわからなかったので、以前眼光鋭いウィジタナンダ長老にお訊きしたことがある。正業と正命はどう違うのか、と。

 やはりテーラワーダの国々でも、セットで教えることが多いようだ。仕事に関係しなければ正業、仕事と関連すれば正命、くらいの理解でいいのだろう。

 

 ここにもあるように、

 

正語は、妄語、両舌、悪口(あっこう、ですよ、と書こうと念のため調べてみたら、どうも仏教用語だと「あっく」と言うらしい。やべぇやべぇ)、綺語の4語悪行を離れること、

 

正業は殺生、偸盗、邪淫の3身(ここは「身体」の意味ですな)悪行を離れることで、仕事に関係ないこと

 

正命は言葉の4語悪行と身の3身悪行を職業に関連して離れること、

 

 だそうだ。


 昔から気になっていたのだが、殺生の段で、日本語だと「人に殺させない」という言い回しがある。

 普通の人は思わないかも知れない。しかし、私は大変気になっていた。「むざむざと人を殺させてしまった」という表現をするでしょ?あれは殺生にならないのか、と。

 だから正確には「(生命の命を奪うことを人に)指示しない、教唆しない」としてほしかった。今となっては私もわかっているが、実はこんなことでだいぶ長い間悩んでいた。

 パーリ語について私はたいしてわかっているわけではないが、経典では実はこういう表現においても、「あまり」矛盾がない。パーリ語が分かっている人にはどうとられても大丈夫なようになっている。しかし、日本語はそうはいかない。

 私も人のことを言えたもんではないことは、たま~にこのブログを読み返して十分わかっていることではあるが、本や新聞、テレビやラジオなどでも、「ん?それはどっちの意味なんだ?どう取ればいいのだ?」と思うことが結構ある。ちょっと言い回しに気をつけてくれればそうとはとらずにすんだのに(というか理解に時間をかけずに済んだのに、と言った方が正確だろうか)。

 先日ラジオを聞いていて、「(災害時にガスの)スプレーの使える時間が」と言っていて、しばらく考え込んでしまった。スプレーの使えない時間帯があるのか?と。

 この場合、「スプレーを使ってもつ時間が」とかならわかるが、確かにアナウンサーが使う言葉としてはもう少し上品な言い方の方が良いような気もするし、なんかそんな言い方もしつこいような気がする。マスコミでは字数制限や時間制限もある。不特定多数に届けることが最大意義なのだから、そこまで考えなくても確かに問題はないのだろう。

 しかし、ここで私が言いたいのは、「普通の人はそんな風にはとらないよ」という考えが透けて見えると腹が立つ、ということだ。ちょっとだけでいいから、私のようなバカにも配慮してもらえるとありがたいなあ、と思う次第である。

 だから、私はそのアナウンサーに文句を言いたいわけではない。私が文句を言いたいのは、お釈迦様、または少なくとも代々の阿羅漢方が認めているものを日本語に訳するという敬意だけは忘れないでほしい、と言いたいだけなのだ。

 

 なお当たり前の話だが、「そんなこと考えるの、さくらぎさんだけだよ」という人には、二度とどころか、一度たりともお目にかかりたくない。さようなら。

 

 

 また別の話題。

 

 

 私もまったく預流果になっていないのでわからないが、テーラワーダの教義的にも矛盾は特にないような気がする。用語の規定がないから人によって表現が違うが、用語を規定すればもう少し具体的に説明できるようになるだろう。残念ながらその用語の規定はいずれかの宗教に依存せざるを得なくなるだろうが。私としては「テーラワーダがおすすめですよ」くらいは言いたい。

 

 アビダンマでは預流果になると五戒を破ることはあり得ないと説くが、クリシュナムルティは不倫をした。だからかも知れない、アビダンマは仏説ではない、と言うのは。いや、私はクリシュナムルティをよく知らないからなんとも言えないが、どうも皆さん彼は悟っていたと思っているようなのでこう書いてみた。

 

 確かにスマナサーラ長老のアビダンマの本にも書いてあった気がする。「私の子供の頃の勘ですが、彼は生まれつきの預流果ではないか」とかなんとか。

 

 何度も言うが、スマナサーラ長老は恐ろしい人だ。最近の長老の書いた(人の)本の帯にもビビった。あんなきついこと、私には絶対に書けない。

 

 上の例でいくと、「子供の頃はまあそう思ってましたけどね。うん、そこは嘘じゃないよ」ととれる。わかっていただけるだろうか?

 

 ダンマナンダ長老も言う、「クリシュナムルティに苦集滅はあるかも知れないが、道がない」と。

 

 独覚仏陀もそうだ。教えを聞いて悟る方ではない独覚仏陀はものすごい能力の持ち主だが、人を導くことができない。独覚仏陀と正自覚者との決定的な差は、ここにある。

 

 人に教えたことのある人ならよくわかると思うが、自分がわかるからといって人に教えられるものではない。自分がわかっていることが大前提だが、だからといって人がわかってくれるか、というとまったくの別問題だ。この教える技術というのは、ほんとうに難しい。この導く道、それが苦集滅道の「道」だ。

 

 経典にもある。ある王様が行進していて、象の上に乗っている時に悟った(独覚仏陀)。そこですべてを捨てて森に入ってしまった、という話が。

 

 この記事にもあるように、本人も「なぜそうなったのかわからない」。独覚仏陀はそんなこともないだろうが、ここだけをとって、自分の悟りだけを目指す、「小乗仏教」と呼ばれてしまった。

 

 残念ながら、人には向き不向きがある。人を教えるのにも向く人もいれば、とある能力はすごくあるのにそれを人に教えるのにはまったく向かない人もいる。教えるべき元の能力とそれを人に教える能力というのは、ほんとうにまったく別の能力だ。

 

 徳のある人は良い。この記事が事実だとすれば、ある経験をして、ある条件がそろえばテーラワーダ的にも預流果にはなれるのかも知れない。テーラワーダ的に見れば、それは前世までに積んだ徳が開花しただけだ、と言える。まあそこも信じないとそうは思えないわけだが。

 

 テーラワーダでは、人は生まれながらにして平等ではない。生まれた時点で、前世までの業が影響して既に色々なものが人によって違う。身体を見れば一目瞭然だが、心はそれよりももっと人によって違う。なにがハンデとなり何がアドバンテージになるのか、まったくわからない。それを完全に知ることができるのが正自覚者だ。大阿羅漢でも、そうはいかない。冥想指導を間違えた、という話は皆さんも聞いたことがあるだろう。しかしあれは、我々素人レベルと同じと考えてはいけない。相当難しい判断の箇所であったはずだ。教義上大阿羅漢は無碍解があるから、人の過去世も7つ前まで見える、とされている。そこまで見ても間違えた、ということだ。

 

 私は以前西澤先生に怒られたことがある。アーチャン・チャー長老が「私はお経(教義だったか)はあまり勉強していませんから」などと書いてあったから真に受けてそんなことを言っていたら「レベルが違う!」と。

 

 そういうわけで、システマチックにその「道」を伝えているのは、私はテーラワーダ以外には知らない。もしかしたら他の道もあるのかも知れない。しかし、今更そんなものを探す気力も、私には、ない。

 

 何度も書くように、別に私は、他の宗教、宗派を否定したいのではない。もしかしたら、前世の徳が相当あるので、ほかの宗教に触れることによって悟りなり色んな能力が開花する人だっているだろう。実際私は、ほかの宗教の本はあまり読まないが、スピリチュアル関連だったり自己啓発だったり心理学関連のネット記事などはよく読む。私が触れているものは、大変参考になるものばかりだ。しかしそれが人によってどこからどこまで適用なのか、となると、それを説明しているものはテーラワーダを置いて他にないのではないか、とは思っている。

 

 以前レーワタ長老がいらした時。秋葉原での勉強会から精舎に帰ってきた後長老同士が長~い間話をしていたのだが(私の目の前で(笑))なんとなく微妙な空気なような気がしたので後で聞いてみたのだが(勿論シンハラ語だったので)、スダンマ長老もレーワタ長老に言ったそうだ。「まだ日本ではその話題は早い」と。内容は「業」だった。

 

 あの後スガタ精舎でも法要があったりして日本人の方も何人も来ていた時に、レーワタ長老が言っていた。「前世の業があって、縁のある人たちが同じところに集まってくるのです」と。日本では「業」というより、「縁」というかも知れない。日本ではそういう時に前世についてはあまり言わないが、それも前世のいつかにも一緒だったのですよ、とかおっしゃっていた気がする。また、ある能力についても似たような人が結局は集まる、みたいな話もしていた。

 

 なんでもそうだが、なにも興味のない所にはまったく縁がない。まず心がそういう方向に向かなければ、(体の)行動もそっちに行きようがない。だから、テーラワーダでもまず「心が先」と言う。乱暴な言い方だが、見栄というのはその逆方向だ。心はどうでもいいからまずは人に見える表。ここで逆に「表はどうでもいいから」というとまた別方向に行ってしまうので(逆の見栄のために、になってしまう可能性がある)、まあとにもかくにも心が大事だよ、とテーラワーダは言っている。その心を見るための、冥想なのではないか。人に「私は悟っている」とか「私は禅定に入っている」とか言うための、冥想ではない。

 

 いや、完全には否定しないけどね。それがモチベーションになった方が良い時期だって、人によってはあるのかも知れない。