さくらぎ瀞がわかる範囲の(スリランカの)テーラワーダの教え

スダンマ長老の弟子(在家)がつぶやいてみる。(只今休止中です)

吉祥経の読書感想文3

 引用は、富士スガタ精舎(現富士スガタ冥想センター)の日常読誦経典より。


引用引用引用引用引用引用引用引用引用

 

asevanā ca bālānaṃ
アセーワナー チャ バーラーナン
愚か者と仲良くしないこと、
paṇḍitānañ ca sevanā,
パンディターナン チャ セーワナー
智慧がある人と仲良くすること、
pūjā ca pūjanīyānaṃ
プージャー チャ プージャニーヤーナン
尊敬すべき人を尊敬すること、
etaṃ maṅgalamuttamaṃ.
エータン マンガラムッタマン
これらが最高の吉祥です。

 

引用ここまで引用ここまで引用ここまで

 

 いきなり難しいことが出てくる。

 

 「智慧がある人と仲良くすること」より前に、いの一番に、「愚か者と仲良くしないこと」が出てくる。

 

 日本ではあまり良いこととされていないが、実はテーラワーダでは、縁を切ることは非常に大事なことだ。


 しかし、この判断がなかなかできない。ではどうすれば良いのか。結局の所、信saddhāしかない。テーラワーダでの信は、法でも僧でもない、お釈迦様に対して。

 

 私は、「この人とは縁を切ろう」と思って、最終的に五年かかったことがある。逆に、「なぜこの人と縁を切らなければならないのだろう?」と感じながら、なぜかどんどん疎遠になってしまった人もいる。後で考えると「あれがまずかったのかなあ」と思わなくはないが、いまだにはっきりとは分かっていない。

 

 修行が進んだ人は、憐れみをもって、問題を抱えている人の手伝いができるかも知れないが、私などはまったく無理だ。まずは自分を何とかしないと。

 

 お釈迦様は、修行するには自分より上の人か、そうでなければ同等の人と、そういう人が見つからなければ一人で修行せよ、とおっしゃる。まずはそうしないと、修行どころではなくなってしまう。

 

 しかしどうしても切れない縁というのもある。その場合は、それこそ業だ、とか修行だ、とか思うしかないのかも知れない。

 


 次は、「智慧のある人と仲良くすること」。当然のこと、これが難しい。

 

 まずは、自分が徳のある人にならないと、徳のある人は見つからない。上に書いた通り、そうとうな人じゃないと憐れみをもって付き合ってくれる自分より上の人はいないので、まず見つけること自体が難しい。

 

 そして例え見つけたとしても、「こいつ、面倒だ」と思われてしまったら、うま~く逃げられてしまう。智慧のある人と仲良くするには、自分が善行為をすること。これしか無い。

 


 「尊敬すべき人を尊敬すること」。結局は、これが一番難しい。

 

 例え智慧のある人と仲良くすることが出来たとしても、その人が憐れみをもって注意してくれたとして、そんな時に逆ギレしているようでは、もうその人は何も注意してくれなくなる。そして成長する機会が無くなる。

 

 別にその人としても上のように縁を切るほどではないから仲良くはするが、思うところがあって何かを言うと逆ギレするからまあそこは言わずに付き合いましょう、となる。

 

 なぜそれがわかるかというと、現に私が逆ギレしてきたからだww。

 


 私は幸い色々なお坊様とお話しする機会があるから色々な手法を見せてもらってきたが、それにしてもお坊様方はこういうところが本当に上手い。あまり強く言ってしまうと衝撃が強すぎるので色んな手を使ってなにかを伝えようとする。タイミングが良ければ、または言われる方の徳が高ければ、私が震え上がるようなことも平気で言うことがある。

 

 そしてこのやり方は、前にも書いた通り、別に経典に書いてあるわけではない。生で接しないと、わからない。

 


引用引用引用引用引用引用引用引用引用

 

patirūpadesa-vāso ca
パティルーパデーサワーソー チャ
良いところに住むこと、
pubbe ca katapuññatā,
プッベー チャ カタプンニャター
前世行った徳を持っていること、
attasammāpaṇidhi ca
アッタサンマーパニディ チャ
心を育てること、
etaṃ maṅgalamuttamaṃ.
エータン マンガラムッタマン
これらが最高の吉祥です。

 

引用ここまで引用ここまで引用ここまで

 

 「良いところに住むこと」。そりゃあ修行のために快適な場所に住めれば一番いいのだろうが、テーラワーダ的に言えば、ほんとうにそうとう業の良い人でないと難しいだろう。

 

 スガタ精舎で雨安居を過ごされたお坊様で、そのお坊様がご住職されているお寺の付近は非常に豊かな地域で、ものには何も困らないのだが、日本に来ている間に賽銭泥棒が出たというので大変そうだったことがある。

 

 他にも、結構山の奥に寺があって、まさに修行にはうってつけの場所らしいのだが、当時はスガタ精舎のお食事のお布施も正直あまり、という時期だったから、「ここの方が静かで良い」とおっしゃっていたお坊様もいらっしゃった。

 

 そういえばそのお坊様はあまりスリランカから出たことがなかったそうで、英語も私の英語とどっこいどっこいだった。そういうところでも、実力が拮抗していると、楽しいですな(笑)。

 

 というわけで、「良いところ」というのも、人によって違ってきてしまう。場合によっては、「今あなたが修行するのに適した場所」なのかもしれない。そんなこと、まったくわからない。

 


 「前世行った徳を持っていること」。これがなにより大事だ、と言っても良い。

 

 前にも言ったとおり、正しい教えを聴くにも徳が要る。修行するにも、修行する「余裕」がある環境でないと、修行どころではない。「良いところ」もそうだが、ここは主に布施ということになる。今それなりにものには困っていない環境にある日本というところでテーラワーダに接しているというのは、誰でもこの前世行った徳がある、ということだ。宗教的な話だけどね。

 

 そして、これからもそうするためには、やはり布施行だ。修行するためには、正直ものが要る。何度も言うように、テーラワーダで言う布施というのは、なにもテーラワーダ関連の僧伽や在家に布施することのみを指すのではなく、他の生命に与えることを指す。別の宗教にだって全然構わない。ただ、新興宗教はちょっと…

 

 これも修行なのだから、出来るだけきれいな気持ちで布施していくことを目指す。十波羅蜜の中に、布施波羅蜜もあるくらいだ。なにもわからずにお布施するのも十分徳だが、テーラワーダではこういう徳がある、とわかってお布施すると、更に高い徳になる。前者は有行、後者は無行、かな。一応アビダンマ専門ブログとしては(笑)。

 

 テーラワーダでは、心での行為を重視する。身口意。世間では身の行為についてが一番重いと見るが、テーラワーダでは心の行為が一番重いと見る。そして、心の調御が一番難しい。だからその前に、身口を戒律で律し、心を調御しやすい環境を作る。

 

 では、身の行為は軽いのか、というと勿論そうではない。なぜ身の行為に出てしまうのかというと、その前に心で繰り返しそういうことを考えていることが外に出てしまうからだ。だからテーラワーダでは重業というのがあるが、あれは身(口もか)で為した行為に対してのみ適用される(悪い方)。それまでに心で考えていても、悪業にはなるだろうが、別に重業にはならない。

 

 そして、これも世間とは逆の考えだと思うが、テーラワーダでは知らずにしてしまった悪い行為の方が罪が重い。

 

 お坊様が言っていた。やかんが熱いと知ってやかんに触るのと、やかんが熱いというのを知らなくて触ってしまうのと、どちらが火傷が酷くなるか、と。

 

 身口意の意を調御するためには冥想となり、性caritaを見るには身体を見るのが有効となる。冥想というのは観業処だけでなく、40の業処も有効だということも、これでわかっていただけるだろう。

 

 業処を育てるには、それなりのノウハウの蓄積がテーラワーダにはある。他の分野とは考え方が違うところが多いので、本格的にやろうと思ったら、是非とも専門的に学ばれたお坊様の下で。

 


 そして、故に、「心を育てること」。

 

 ここはattasammāpa「ṇī」dhi caアッタサンマーパ「ニー」ディ チャとなる時もある。

 


 「これらが最高の吉祥です」。毎回偈の最後に出てくる。これらは「最高の」吉祥だ、とスッタニパータは言う。