さくらぎ瀞がわかる範囲の(スリランカの)テーラワーダの教え

スダンマ長老の弟子(在家)がつぶやいてみる。(只今休止中です)

四つの御守りの冥想~不浄隨念2

 引用は、富士スガタ精舎(現富士スガタ冥想センター)の日常読誦経典から。

 

引用引用引用引用引用引用引用引用引用

 

patitamhā'pi kuṇapā
パティタンハーピ クナパー
身体から出てきた汚いものよりも、
jegucchaṃ kāya-nissitaṃ,
ジェーグッチャン カーヤニッスィタン
身体にある汚いものは汚い、
ādhārohi sucī tassa
アーダーローヒ スチー タッサ
身体にある汚いものは
kāyo tu kuṇape ṭhitaṃ.
カーヨー トゥ クナペー ティタン
存在するところも汚いからです。

 

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 以前佛道実践会で、「ここは日本語おかしくないですか?」と質問があったことがある。

 

 私もそう思った(笑)。

 

 はじめにスダンマ長老から聞いた時には、何を言っているのかわからなかった。

 

 つまり、排泄物、というものがある。身体から出ると、まあ汚いと思うわなあ。うん、普通だ。

 

 しかし、ここでは、「そうじゃないでしょ?」と言っているわけだ。身体にある、では排泄物になる前のもの、と言ったらいいのだろうか、そのものの方が汚いだろ、と。

 

 どういうことだろうか。

 

 排泄物は、では道端でも、トイレでも良い。道端も、トイレも、汚くないでしょ?というわけだ。トイレは、表面はやや汚いかも知れないが、まあ考えてみれば掃除すれば綺麗になる。そこで排泄行為が行われなければ、ずっと綺麗なままだ。ホームセンターなどで展示されている便器を想像してみればわかるだろう。道端だって、まあ犬や猫や、稀に人間もあるだろうか、排泄行為が行われれば汚くなったりするが、そうでなければ、ほっておくだけで悪臭を放つことは、無いと言い切ってしまって良いだろう。たまに事故で変なものが流れたり、洪水が起こるとそれなりのものが流れてきたりするが、道端自体(?)は、別に「汚い」と言えるものではない。

 

 ところが、だ。では身体はどうなのだろうか。二、三日放っておくと、そりゃあまあ臭くなる。

 

 ということだ。

 

 排泄物になる前のものが身体の中にあるということはつまり、そのものも汚いし、それが存在しているその場所自体も汚いのだから、もうどうにもならないほど汚いのだ、ということだ。

 


 こういうことを書いてしまうと、たまに「身体はじゃあ汚いのだから、綺麗にしてもしょうがないじゃないか」と言う人が出てくる。「たまに」だが。

 

 まず、慈悲の心を持って、周りに迷惑にならないようにしよう。クサいと迷惑だ。

 

 生命、は無理だが、更に「たまに」、「人に会わないんだけど」という人も出てくる。

 

 スピリチュアル的な話で恐縮だが、やはり汚いところにはそれなりの生命が集まってくる。ゴミ屋敷をテレビでやると、いろいろ理由が語られたりするが、結局の所本人だってすべての理由が分かっているわけではないと思う。それなりの生命が集まってくると居心地がいいので、その状態を保とうとするようになる。これは汚いとか臭いとかだけではなく、貪瞋痴どれにも当てはまる話だが。人の文句ばっか言っている人はずっと人の文句ばっか言っているだろう。自分のことは見ずに。もうそういう生命に好かれてしまっているのだ。

 

 逆に言えば、不貪不瞋不痴もそうなのだとは思うが。

 

 というわけで、そちら的にも、慈悲の心を持って、「周りに迷惑をかけてしまわないように」と、普通に綺麗にしていればそれで良いわけだ。こちらも、行き過ぎは問題になってしまう。

 


引用引用引用引用引用引用引用引用引用

 

mīḷhe kimiva kāyo'yaṃ
ミールヘー キミワ カーヨーヤン
この身体は汚いものの中に生まれるウジ虫のように
asucimhi samuṭṭhito,
アスチンヒ サムッティトー
汚いものの中に生まれたものです。
anto asucisampuṇṇo
アントー アスチサンプンノー
排泄物でいっぱいになっている便所のように、
puṇṇavaccakuṭī viya.
プンナワッチャクティー ウィヤ
汚いもので満ちています。

 

引用ここまで引用ここまで引用ここまで

 

 「排泄物でいっぱいになっている便所のように」。ここは「トイレ」にしようか、と迷ったところだ。

 

 しかし、日本に「トイレ」という言葉が定着してからというもの、あまり排泄物でいっぱいになっているトイレ、というのがイメージがわかないような気がした、というのが一つ、もう一点は「一応お経なんだし、カタカナ外来語を入れるのはいかがなものか」と思ったからだ。

 


引用引用引用引用引用引用引用引用引用

 

asuci-sandate niccaṃ
アスチサンダテー ニッチャン
腐った肉を入れた鍋に穴が空けば汚い液体が出てくるように、
yathā medaka thālikā,
ヤター メーダカ ターリカー
この身体からも汚い液体が出てきます。
nānā kimi-kulāvāso
ナーナー キミクラーワーソー
身体の中にはウジ虫のような虫がいます。
pakka-candanikā viya.
パッカチャンダニカー ウィヤ
汚い水たまりのようです。

 

引用ここまで引用ここまで引用ここまで

 

 テーラワーダでは確か九つだったと思うが、九つの穴から、汚い液体が常時出てくる。よくは知らないが、虫がいるそうだ。最近の日本では、寄生虫とかは聞かなくなりましたなあ。

 

 まあとにかく、「汚い水たまりのよう」だそうだ。私は肥溜めも見たことがないし、よくわからない。そういう水たまり自体、現代日本では日常的にはほとんど見かけなくなってしまった。

 

 時代の変化とともに、たとえ話もよくわからなくなってしまう。

 

 経典の訳で問題になる所は、ここだ。経典の時代には当たり前だったことが、現代では想像もできなくなってしまっていたりする。インド文化圏では今でもわかることが、やはり日本だと背景がまるでわからないことも多い。

 

 そんなことが多いので、私はわかるまで根掘り葉掘り訊くのだが、まあ恐らくスダンマ長老も嫌がっているだろうと思うことが多い(笑)。当然、他のお坊様も同様だ。

 

 意外に文化というのは、突っ込んで訊かれると困るものだ。普段当たり前だと思っているのだから、深く背景を知ろうとは思わないことが普通だ。

 

 以前にも書いたが、「日本人はなぜお辞儀をするのですか?」と訊かれた時、皆さんならどう答えるだろうか。

 

 多分、誰の言うことも不正解ではないと思うが、では文化人類的にどれが正解なのか、となると、外国人はどう答えを出すだろうか。

 

 ま、そんな話になってしまう。普段自分を含め自分の周りが「ちょー当たり前」と思っていることを外部から「なぜなの?」と訊かれると、困ってしまう。

 

 そして、またこの「ちょー当たり前」が厄介で、これも以前に書いた通り、誰にとってもちょー当たり前なのだから、わざわざ文献に残らない。

 

 この点テーラワーダの場合、インドから、注釈書の時点でスリランカに移っている関係上、助かる部分もあるのだが、こんなこと言ったらスリランカの人に怒られるだろうが、我々日本人から見ると、インドなんだかスリランカなんだか正直な所わからない。西洋から見ると、日本か中国か韓国かわからないのと同様に。

 

 というわけで、インドとスリランカは恐らく違うわけだが(←ちょー失礼)、注釈書ではその程度の違いしか明らかにされていない。文献を基にするにしても、日本の常識とは、もともとまずかけ離れているのだ、という認識が必要だ。こういう所は、残念ながら注釈書、副注釈書を見たところですべてわかるものでは無い、と感じている。

 

 もちろん同じところはある。しかし、日本の常識を当てはめて経典に落とし込んだところですべてが正解になるのか、というと、そうではない、ということだけはわかっておいていただきたい所だ。

 


引用引用引用引用引用引用引用引用引用

 

gaṇḍabhūto rogabhūto
ガンダブートー ローガブートー
この身体は腫れ物のようなものです。この身体は病気です。
vaṇabhūto samussayo,
ワナブートー サムッサヨー
この身体は傷のように治すのが難しい、
atekiccho'tijeguccho
アテーキッチョーティジェーグッチョー
とても気持ち悪いものです。
pabhinna-kuṇapūpamoti.
パビンナクナプーパモーティ
あちこち壊れる汚いものです。

 

引用ここまで引用ここまで引用ここまで

 

 腫れ物なども、医療環境の改善なのだろうか、日常環境ではあまり見なくなった。病気も昔より治るようになった。すべてではないだろうが、傷もすぐに治る。

 

 だからかわからないが、私にはここは、あまりイメージできるものではない。

 


 不浄隨念終了。