さくらぎ瀞がわかる範囲の(スリランカの)テーラワーダの教え

スダンマ長老の弟子(在家)がつぶやいてみる。(只今休止中です)

四つの御守りの冥想~死隨念2

 引用はいつもの通り、富士スガタ精舎(現富士スガタ冥想センター)の、日常読誦経典より。

 

引用引用引用引用引用引用引用引用引用

 

īsakaṃ anivattaṃ taṃ
イーサカン アニワッタン タン
命は、朝に昇った太陽が夕方になって沈むまで
satataṃ gamanussukaṃ,
サタタン ガマヌッスカン
走り続けているようなものです。
jīvitaṃ udayā atthaṃ
ジーウィタン ウダヤー アッタン
人生は少しも止まらず、
suriyo viya dhāvati.
スリヨー ウィヤ ダーワティ
死というところまで走っていきます。

 

引用ここまで引用ここまで引用ここまで

 

 太陽が東から西へ常に動き続けているように、我々が、有情が生まれたということは、常に死に向かって走り続けていることだ、とのこと。

 

 他のテーラワーダの国はわからないが、スリランカでは、誕生日や結婚記念日など、まあとにかくなにかにつけてお食事のお布施等をして、お坊様方に祝福してもらう。こういう時はだいたい皆ケーキを持って来て、皆で食べる。

 

 大変良いことだと思う。なにかにつけて文句を言うのではなく、なにかにつけて、善いことをする。

 

 こういう時、例えばでは誕生日の場合、お坊様は冗談めかして、「なにがおめでたいんですか?また一年死に近づいたんですよ?」なんて言ったりする。

 

 現代日本ではテーラワーダの考え方自体なかなかあまり馴染みのない考えなのでスマナサーラ長老は怖そうな顔をしてこういうことを言ったりするが、これは決して「おめでたい気持ちになんかなるんじゃないよ」ということではない。

 

 確かお釈迦様も、「何を笑うことがあるのか?こんな輪廻の中で苦に満ちているのに」みたいなことをおっしゃっているはずだが、それは「なに笑ってるんですか!?不謹慎な!」とか言っているわけではない。いわゆる不謹慎厨ではない、ということですな。

 

 ここは結構誤解されている所だと思う。だから世界的に見ても、「仏教は暗いことばかり言う」と言われてしまう所以だ。

 

 お釈迦様は、「修習、修行を楽しめ」とおっしゃる。もしかしたら、出家に対しては「は?なに笑ってんの?バカなの?」くらいの圧力を加えているかも知れない(笑)が、在家は、日常生活が楽しめないで、修行が楽しめるわけがない。

 

 お釈迦様の教えというのは、日常生活に活かしてこその仏教だ。なぜか。別に在家に対して「解脱しなさい」とは強調していないからだ。もちろんお釈迦様在世当時、在家の預流果の方はわんさかいたし、不還果の方も、経典だか注釈書だかに出てくる。しかしそういう方々は、無論教えを説いたりする方々もいらっしゃったが、まず日常生活を楽しんでいらっしゃった。

 

 日本でも昔からそうであるように、なにか問題を起こした、問題が起こったから出家した、ということはある。そういうことがあってお釈迦様に出会ったから、「では出家しなさい」と、いいようにお釈迦様に誘導されている気がしないでもない話も多い(笑)。

 

 しかし、在家の楽はお釈迦様も認めている。出家の楽とは明らかに違うものだ。ここを誤解して、「在家も出家のように暮らさなければ」と思う必要はまったく無い。中にはそういう修行タイプの人もいる。それはそれで勿論素晴らしいことだ。

 

 が、中には、そういう生活は「窮屈だなあ」と感じる人だっている。

 


 今はまだできないが、そのうち、テーラワーダ実践者の在家皆でなにか普通に遊んだって良いのではないか、と思っている。

 

 大乗仏教のお寺でも、若いお坊様を中心に、いろいろなことが試みられているようだ。大道芸やコンサート、こども食堂や、当然教法の勉強まで。最近はアンドロイド観音まで出てきた。正直に言ってしまうと、個人的には「どうか」と思う(笑)が、動画を見た時、そこに関わられているお坊様方は本気なんだな、というのは伝わってきた。

 

 まあアンドロイドはおいといて、それでこそ「お寺」だと思う。皆が集まり、善行為をしようとするモチベーションが皆で高まりあえば、素晴らしいではないか。

 

 冥想や法話を聴くこと、教法の勉強は大変素晴らしい。しかし、それ「だけ」では、なんとも、ねぇ。

 

 世間一般で「遊ぶ」となると、ちょっとバカ騒ぎ的なイメージがチラついたりするが、テーラワーダでやるとなれば、当然酒は絡まないし、以前にも書いた通り、バーべキューとも縁が無い。

 

 皆でやるとなれば、あまり準備に時間が掛からないものの方が良いだろう。それぞれが既にできることを組み合わせてなにかやるのなら、誰にも負担は重くならない。永続的に続けていくのなら、いつか義務感が生じてきてしまうようなら、その手前ですんなりやめられるような雰囲気を作っていく。

 

 話題になる、大乗仏教のお寺でのコンサートは、ちょっと大掛かりすぎる。そういうものがあっても勿論構わないのだが、皆でやるというのなら、そこまで大掛かりになる必要は無い。ほんとうに、そこに来られる人が大きな負担なくできることをやれば、それで良いではないか。

 

 暫く続けていると、方向性を見失うかも知れないし、冥想と同じで、変な方向に行きそうになってしまうこともあるかも知れない。そういう時に、お坊様がいれば、早いうちに軌道修正ができる、というものだ。


 正直なところ、今の日本はテーラワーダの黎明期だということもあって、皆のマウンティング合戦だった。冥想となると「何年やってますか?」とか、教義となれば「無常、苦、無我とは」とか。

 

 どうですか?皆さんそろそろそれに疲れてきた頃ではないですか?こういう力が抜けた時というのは、チャンスだ。今こそ、大きな一歩を踏み出せる時だ、と思うのだ。

 


引用引用引用引用引用引用引用引用引用

 

vijju-bubbula-ussāva
ウィッジュブッブラウッサーワ
雷、水の泡、水に書いた線、葉の上の滴のように
jalarājī parikkhayaṃ,
ジャララージー パリッカヤン
いつ落ち消えるかわからない、そのようにすぐになくなります。
ghātako'va ripū tassa
ガータコーワ リプー タッサ
死というものは防ぐことのできない、
sabbatthāpi avāriyo.
サッバッターピ アワーリヨー
殺しに来る敵のようなものです。

 

引用ここまで引用ここまで引用ここまで

 

 水の泡、葉の上の滴、というのはわかる。

 

 雷、というのはどういうことだろう?稲妻のように一瞬ですよ、ということだろうか。

 

 それにしても、「水に書いた線」というのは、あんまりではないだろうか(笑)。検証のために今指でやってみたが、水面に線など書けねえぞゴルァ(怒)

 

 (追記:その後風呂で乱暴に(?)やってみたら、確かに瞬間軌跡が残る。このことか?)

 


 まあとにかく、「そのようにすぐになくなります」よ、とのこと。

 

 昨日出てきた、阿羅漢になられたお坊様は、この死隨念を限界までやった、とも言える。ミャンマーの言い方かもしれないが、死隨念は、今年、今月(もしかしたらここら辺までは無かったかもしれない)、今日、次の時、分、この呼吸が終わる時、とか、どんどん時間を短くしていったりする。

 

 そういう話を聞くと、まあこの文章もやりすぎというわけではないなあ、とは思うが、それにしてもなぁ、と思ってしまう私は、まだまだ死隨念が足りないのだろう。