さくらぎ瀞がわかる範囲の(スリランカの)テーラワーダの教え

スダンマ長老の弟子(在家)がつぶやいてみる。(只今休止中です)

吉祥経の読書感想文4

 珍しくエゴサwしてみたら、訂正前のものがクロールされていたようで、恥ずかしい…。あれはいつ来るかわかりませんな。

 


 さて、引用は、富士スガタ精舎(現富士スガタ冥想センター)の日常読誦経典より。

 

引用引用引用引用引用引用引用引用引用

 

bāhusaccañ ca sippañ ca
バーフサッチャン チャ スィッパン チャ
よく聞くこと、
vinayo ca susikkhito,
ウィナヨー チャ ススィッキトー
良い勉強をすること、
subhāsitā ca yā vācā
スバースィター チャ ヤー ワーチャー
しっかりしていること、良い言葉を使うこと、
etaṃ maṅgalamuttamaṃ.
エータン マンガラムッタマン
これらが最高の吉祥です。

 

引用ここまで引用ここまで引用ここまで

 

 ここはまあ、普通に世の中で言われることを言っているだけですな。別に、2600年前から人間は変わっていない、ということでしょうな。

 

 「よく聞くこと」。場合によっては、聞いてはならない時もある。なんとしてでも、聞いてはならない時もある。聞かなければならない時もある。なんとしてでも、聞かなければならない時もある。「なんでもかんでも言うこと聞けよ」というわけではない。

 

 結局、自分で判断しなければならない。信性や痴性の人はなかなか難しいと思うので、そういう時は信saddhāだ!

 

 

 「良い勉強をすること」。以前にも書いた通り、世間の大天才は、というか世間でとんでもないものを作り出した人たちは、だいたい大天才だ。今は平和利用されて大変役に立っているものも多いが、ここら辺はまあ難しいところですな。残念ながら、テーラワーダの知識も悪用できる。しかし、だとすればそれについても、平和転用は容易なのかも知れない。さすがにここは体験したことがないのでわからないが。

 

 

 「しっかりしていること」。意外に「ふわっ」としている。あまりしっかりしすぎていても、良くない。往々にして、大人になると、しっかりしている人は「もっとしっかりしなきゃ!」とか思っていたりするし、全然しっかりしていない人に限って「私はしっかりしている!」と思っていたりする。難しいとこですな。

 

 

 「良い言葉を使うこと」。まあここはもう大丈夫だろう。

 

 しかし、経典にもあるように、業によって、阿羅漢になられた後でも言葉が汚い方がいらっしゃった。クセが完全に無いのは、お釈迦様、ただ一人だけだ。

 

 日本では、大概身口意の身や口は整えられる人が多い。しかしその実、意はどうだろう。そういう人に限って身口は整えられていたりするから、騙されやすい。というか、そういう人だからこそ、身口は整える。騙すために。本人はそうは思っていないと思うが。

 

 私は今珍しく本を読んでいて、名著、D.カーネギーの「人を動かす」山口博訳だ。本を読み慣れていないから全然先に進まないwのだが、そこにも書いてあった。世紀の大悪人ですら、自分は大慈善事業をやっている、と思い込んでいる、と。だから、「お前は正しくない」なんて言っても、逆効果にしかならないそうだ。


 逆に、日本では、もしかしたら業、生まれによる言葉遣いがあるのだが、本来のものからかけ離れてしまっている、という人もいるかも知れない。「こうしゃべらなきゃ」と思い込んでいる人は、もしかしたらそういうこともあるかも知れない。

 

 とゆうか、これについては言葉遣いだけではなく、すべてに当てはまる。人は生まれによって違う。ほんとうに何もかも違う。自分になにが合っているかは、冗談抜きで、かなりスピリチュアルな感覚が必要な所だ。

 

 小さい頃から、それこそなにかに妨害されたりしていなかったら問題にはならないだろうが、大概社会が目指す中庸像に当てはまっている人は、なかなかいないだろう。

 

 実は、冥想もこうなりやすい。世間では体験しないことなので、自分の生まれと違うところに行きすぎてしまう恐れがある。そうなると急に冥想がうまくいかなくなってしまったりする。そういうわけで、冥想指導者に、ということと、法話は聴いてほしい、ということになる。ま、もうこのブログではここは触れなくていいですな。

 


引用引用引用引用引用引用引用引用引用

 

mātā pitu upaṭṭānaṃ
マーター ピトゥ ウパッターナン
両親の面倒を見ること、
puttadārassa saṅgaho,
プッタダーラッサ サンガホー
奥さん子供を育てること、
anākulā ca kammantā
アナークラー チャ カンマンター
正しい仕事をすること、
etaṃ maṅgalamuttamaṃ.
エータン マンガラムッタマン
これらが最高の吉祥です。

 

引用ここまで引用ここまで引用ここまで

 

 「両親の面倒を見ること」。最近では、「両親なんてなんで平気で言えるんですか?片親の人だっているんですけど」なんて言われてしまう。

 

 言葉に配慮することは良い。大変良いことだ。しかし、言葉狩りが行き過ぎるのは、どうだろう。しかも、それを善行為だと思って仏教関係の人がやっていたりする。

 

 言葉に配慮が無い人がいることは確かだ。文句を言いたくなる気持ちもわかる。しかし、以前に比べ、公的にはかなり配慮されるようになった。個人的には、「もういいんじゃないかなあ」と思う。引き続き言葉狩りを続ける人は必ず存在するのだし。

 

 そして、この経典は、どの学者も最古層に属するものだ、と認める、一応2600年位前のものではないか、とされるものだ。その訳をしているのに、「そこはどうだろう」なんて言われたら、もう目も当てられない。

 

 まあさすがにそこまで言う人はいないかも知れないが、言葉狩りより大事なのは、慈悲の心だ。以前にも書いた通り、仏教協会の読誦経典にある「戒め」にあるように、配慮の無い人は必ず一定数いる。社会の圧力によってそういう人がおとなしくなることには私も大賛成wだが、実際は上に書いたように、「おまえは間違っている!」と言い続けても、難しいだろう。

 

 というわけで、実は個人的には思うところがあるわけだが、そこは捨upekkhāですよ(逃)。

 


 次も同様。「奥さん子供を育てること」。もうそこは良いですな。

 

 ここで重要なのは、家族を養うのは善行為ですよ、と断言されていることだ。テーラワーダでも、家族を養うのは善行為であるとはっきりと規定されている。「俺は家族を養ってるんだ!」とキレる、なんてのは論外だが、自信を持って良いところなのです。

 


 「正しい仕事をすること」。これは正命ですな。確か前に書いたはず。

sakuragi-theravada.hatenablog.jp

 あったあった、ここですな。

 


引用引用引用引用引用引用引用引用引用

 

dānañ ca dhammacariyā ca
ダーナン チャ ダンマチャリヤー チャ
布施をすること、法に従って生活すること、
ñātakānañ ca saṅgaho,
ニャータカーナン チャ サンガホー
親戚と仲良くすること、
anavajjāni kammāni
アナワッジャーニ カンマーニ
五戒を守って生活すること、
etaṃ maṅgalamuttamaṃ.
エータン マンガラムッタマン
これらが最高の吉祥です。

 

引用ここまで引用ここまで引用ここまで

 

 「五戒を守って生活すること」。意訳といえば意訳と言えるが、単語を直訳するより、この方がわかりやすい。もちろんいい加減に意訳しているわけではなく、ダンミッサラ長老、スダンマ長老、私で喧々諤々(字がよくわからなかったので調べてみたら、「誤用」とされることが多いようだ)やった結果だ。

 

 他は読んで字のごとく。別に何も問題ないですな。

 

 どんなことがあっても、いかなることがあっても、「親戚と仲良く」しなければならない、というわけでもない。しかし、まあ逃げるだけでも良くないのかも知れないが、なにごとも私はさっさと逃げたいなあ…