さくらぎ瀞がわかる範囲の(スリランカの)テーラワーダの教え

スダンマ長老の弟子(在家)がつぶやいてみる。(只今休止中です)

宗教全開

 スマナサーラ長老が言っていた。

 

 アリの中で、餌を自ら探しに出る個体がいる。そういうのになれ、と。

 


 以前のスガタ精舎では、定期的にアリが大発生していた。

 

 外国に出たことのある人はよくご存じだと思うが、家に入るのに靴を脱ぐ国はきわめて珍しい。

 

 スリランカも例外ではなく、家に入るのに靴を脱がないが、そもそも寺の敷地は聖なるもの、という意味で靴も(当然靴下も)履かない。

 

 で、以前のスガタ精舎は手狭だったので人数が多いと本堂で食事もすることが多かったのだが、テーラワーダの国の人なんか、食べ物が落ちても他の生き物が食べる、ってんで気にしないどころかどちらかというと善行為チックだったりする。

 

 しかしこれが当然日本では大変困るわけだ。ここらへんはちょっと、日本人がカバーしなければいけないとこかなあ、とは思う。なにしろ、あまり大きな声では言えないが、お坊様もほとんど気にしない(笑)。

 

 が、おかげでアリはじっくりと観察することが出来た。

 

 だからといってむちゃくちゃ詳しいわけではないが、餌を見つけた個体がおしりからなんか出して道標にするのではなかったか。そこから道が出来、行列が出来る。

 

 しかし、何匹かいるのだ、やっぱり。行列からはなにも関係ない所を、あっちに行きこっちに行き、向こうに行き、こっちに戻り。集団からは当然離れている。

 

 パイオニアは、先に何があるかわからないから、常に警戒を怠らずに進まなければならない。行列はそういうことは気にしない。

 

 有名な先生の意見に乗っかってマウンティングしたり、または不道徳を働いた者を攻撃して自分の地位を高く見せる人たちも、パイオニアには違いないかもしれない。しかし、その行く先は、どうなのだろう。

 


 ウィセッタ長老の冥想会に参加したての頃、私は「ウィセッタ長老は、冥想的にどうなのだろう」と疑っていた(笑)。

 

 だから座る冥想の時間に、目を開けて長老の方を見たのだが、まあ見事な姿勢で見事な冥想体勢だった。

 

 冥想を暫くしていると、人の冥想する姿を見て、だいたい実力がわかる。だから私も見てみたのだが…

 

 後でわかるのだが、そんなことはウィセッタ長老は完全にお見通しなのだw。

 

 こういう時、「こいつ、面倒だ」となると、お坊様は逆のことをすることもある。明らかに冥想に不慣れです、と見せることも簡単だ(縁が無い、という時にもそうすることがあるので、そういう時は必ずそうだ、というわけでもないが)。

 

 以前のスガタ精舎にある日本人の方が来たとき、あるお坊様が明らかに変な振る舞いをなさる。その日本人の方も怪訝な顔をされていたが、まだ尊敬の気持ちがあったのかも知れない。すると、どうだろう。そのお坊様は、もう「アホ」としか思えないような振る舞いをし出した!

 

 当然のことながら、その方はそれ以降見ていない。

 


 人は60歳も超えると、地獄の炎が見えてくる人がいるらしい。

 

 ある日突然電話があり、「家が火事だ!」という。

 

 なぜ私に電話してくるんだろう、119番が先ではないか、とは思いながら、しかし普段はそんなことを言って人の気を引くような人ではなかったから取り急ぎ行ってみたら、本人はもうそのことはさっぱり忘れていたようだ。

 

 その人とはその後、縁を切った。

 

 え、いや、アビダンマにこういう話、出てきますよ。

 


 私だって、最初からアビダンマがそんなに好きだったわけではない。しかし、これで信じざるを得なくなった。


 テーラワーダでは、四悪趣、地獄、餓鬼、畜生、修羅は「実家」という。いつでも気軽に帰ることが出来る(笑)から、「実家」。世間で思われているより、簡単に帰ることが出来る。

 

 アビダンマで出てくるのだが、確か天界、梵天界、無色梵天界は合わせて30いくつか、人間界は1、そこに結局神々も人間も餓鬼畜生修羅もいたりして、あとは地獄なのだが、確か180いくつかある。だから、定員オーバーの心配はまったく要らないw。仮に地球全ての生命が地獄に押し込められても、まだまだ少なくとも180いくつか-1程度の余裕はある。

 

 人間界はこういう世界の交差点と言われ、テーラワーダ、というかテーラワーダスピリチュアルでは、交差点、十字路、そういうのは霊的にあまり良くないもの、とされる。霊的修行(輪廻?)から見れば、「修練の場」なのか。


 モッガッラーナ尊者は言うまでもなく神通第一の大阿羅漢でいらっしゃったが、何世か前に親を殴り殺しており、その次の世、この大阿羅漢になる生まれの一つ前だかいくつか前だか忘れてしまったが、地獄にいた。そしてこの大阿羅漢の生も、何世か前の親を殴り殺した業により、大阿羅漢にも関わらず、自分も殴り殺されてしまった。

 

 

 テーラワーダで正自覚者になるには、その時点で阿羅漢になる能力があるにも関わらず衆生のためにそれを捨て、正自覚者の前で「正自覚者になります」と誓願し、その正自覚者から、この者はいついつにこういう名前の正自覚者になる、と予言、授記されて始めて菩薩の誓願、正自覚者の誓願が有効になる。

 

 当然のことながら、この誓願は力が強く、というか「絶対」だ。なぜか。これが破られてしまったら、その正自覚者の授記が嘘になる、即ち正自覚者が嘘をついた、ということになるからだ。

 

 そしてこの方は、正自覚者になるまでは「菩薩」となる。その間に預流果に悟ることは絶対に有り得ない。預流果になってしまうと、もう正自覚者には決してなれない。

 

 しかしこの菩薩、畜生には落ちる。よく落ちる。ジャータカを読んでみよう。菩薩がよく動物として登場する。規定は確か、ネズミより小さい生物にはならず、象より大きい生物にはならず。地獄、餓鬼、修羅に転生した、というのは見たことがない。恐らく転生していないだろう。教義上、四悪趣に転生しなくなるのは預流果からだ。

 

 因みに霊障にも預流果になるともうならない。憑依されない。身体に入らない。というか、入れない。

 

 そういえばこの菩薩、転生している間に五戒もいろいろ破るが、嘘だけはついたことがない。

 


 話は戻るが、地獄に落ちることが確定していてそれがちらちら見えるようになるのだとすれば、そりゃあその人が今の人間の生に執着したくなる気持ちはよくわかる。そりゃあんなとこ行きたかないだろう。

 


 注釈書で、獄卒はいるのかいないのか論争というのがある。どうも獄卒というのは天界の生命で天界から出張しているらしいのだが、地獄の生命をいじめなければならない(それが仕事)関係上、当然悪業しか積まない。

 

 そういえばミャンマーのお坊様に訊いたら、無間地獄というのは、よく知られているように苦しみを受ける間がない、即ち休みがないということで無間と、地獄の生命だらけで間がないから無間、なのだそうだ。

 

 イメージとしては満員電車みたいなものなのだろうが、無間というくらいだから、では上下はどうなのかと訊いてみると、「獄卒がダメージを与えられないから、恐らく上は開いてるだろう」とのお答え。

 


 だから、他の宗教では「地獄に落ちる!」と言うとそうとうな脅しになるかも知れないが、テーラワーダでは結構普通のことだ。しかも誰でも気軽に行ける。

 

 地獄の生命は寿命(?)がとんでもなく長いわけだが、これも人間と同じなのだろう、経典に7日で地獄から出てきた、という話も出てくる。

 

 考え方を変えれば、地獄に行けばそれまでの悪業が(地獄で結果を受けることによって)清算される、とも言える。悪因悪果、善因善果がテーラワーダの教えなのだから、地獄で受ける苦しみは、決して理不尽というわけではない。それまでの悪業分の処理が終われば無事地獄からは出てくることが出来る。恐らく、人間界と違い、業以外の影響はあまり受けないだろう、と私などは勝手に思っている。


 以前お坊様に見せられたwのだが、スリランカの悪魔祓い(おとなしいやつ)で、女の子に憑いていた餓鬼は、回向してもらっても悪業によりあと7回餓鬼として転生しないとその回向すら受け取れない、とか言っていた。こういう悪魔祓いは、出家はやらない。在家の仕事だ。出家は直接には悪魔祓いには関わらない。都市部を中心に、いくらスリランカとはいえさすがにこういうのは疎まれ始めているらしい。というか、もう既に文化遺産的感覚か。物質社会が発展すると、どこでも同じですな。

 

 ああいう悪魔祓いというのは、宗教が無いと成り立たない。

 

 と思う。無宗教の悪魔祓いなんて成り立つのだろうか。考えてみてもまったく思いつかないのだが…