師匠(たち)に魅入られた男の悲劇
好評「ふわっ」と回の三回目。
ネットを見ていると、どうもテーラワーダに於ける「師匠」というものを絶対視したり、聖者を見つけようと躍起になっているように私には感じられる。
動物は、食べ物を見つけるとまずつついてみて、腐っているかどうか(腐ったものを食べる者なら既に腐っているかどうか)匂いを嗅ぎ、少し食べてみて毒ではないか確認し、周りを見て餌を取りに来る奴がいないか警戒しながら、恐る恐る食事をする。それが野生の生き方だ。人間はすっかりそれを忘れてしまっている。師匠だって、食べてみなければわからない(←ひどい言い方)。
また、この野生の食べ方は、食事のお布施とは正反対の境地だ。善行為に慣れていないと、どうしても食事のお布施の時(またはそれにまつわる時)には荒れてしまう。そこをどう調御していくかが仏道の実践だ。
さて、「師匠」について気になるツイートが2連続で飛んで来たので。
仏教の師は偶然に出会うものではありません。
— マハーカルナー禅師 日々善哉 (@7GekbJcYtBtzWS6) February 1, 2019
弟子の機根が熟し、学びの準備が整ったとき、
彼にふさわしい師が自然に現れるのです。
師は仏縁と知り、
学べるものすべてを真摯に学びとってください。
あなたが勇気を出して、師に向かって一歩を踏み出せば、
師は99歩、あなたに駆け寄って下さいます。
私は、師匠であろうが、納得いかないことがあると平気で食ってかかる人間だ。
そして、
sakuragi-theravada.hatenablog.jp
明らかに貪性ではないので、興味が出たところに「ずばっ」と食いつく性格でもない。
なにかを「やればいいのかなぁ」と思っても、すぐに「いや、そんなことをするとこういう嫌なこと、デメリット等々がある」と考える人間だから、確実に瞋性か覚性だろう。
あなたは、師匠(たち)に魅入られた男の悲劇をご存じだろうか。
テレビでは、テロリストの乱射事件や子どもの虐待のニュースなど痛ましい事件が次から次へと流れてくる。それを目にして、ただ悲嘆にくれるのか、怒りに苛まれるのか、不安や恐怖に怯えてしまうのか、それとも、「こんな世界だからこそ、私の出番だ!」と奮起していくかは、各自が自由に決めていける。
— プラユキ・ナラテボー(公式) (@phrayuki) February 3, 2019
私は、テーラワーダのこういう所が大嫌いだ(笑)。
なぜ、「ただ悲嘆にくれるのか、怒りに苛まれるのか、不安や恐怖に怯えてしまうのか、それとも、「こんな世界だからこそ、私の出番だ!」と奮起していく」のか。
ここに、「ふ~ん、なるほど、こういう理由からこういうことは起こるのか、と分析して、放っておく」という選択肢が無いのはなぜなのか。奮起しねーよw。
てゆーか、何もやりたくない(笑)。
そして、師匠(たち)は、私のそんな性格なんてとっくの間にお見通しだ。だからどういう手を取るのか。私が食ってかかる相手をいなくしてしまうのだ。具体的には、誰に向かって文句を言っていいのかわからなくしてしまう。
「そんなことできるのか!?」と思うだろう。これができるのだ。私が体験してきたのだから、間違いない。
正直な所、私は頭に来ないと行動しない。以前5chに現れたのは、そういう意味からだ。正直あの時には参った。
本当のところを言うと、私が腹を立てていたのは、擁護派に対してだった。アビダンマッタサンガハを習ったんじゃないのか!?散々おかしいこと言ってるだろ!?なんであの知識でやり込めないんだよ(怒)!と。
反対派も擁護派も、私が会ったことのない人たちばかりだ。どういう人かさっぱりわからなかった。しかし、あれでなぜあんな問題が起こったのかを痛感させられた。問題を起こした人だって、「いや違う」と言ってる人だって、ろくにアビダンマを勉強してないじゃないか!どいつもこいつもバカばっかりだ!!
と、頭にきて、しょうがないから助け舟を出すつもりだったが、いやあ結果は散々だった。あれで思い知った。皆アビダンマの「ア」の字も理解していなかったのだ、と。
正直な所、今でもそこについて状況はあまり変わっていないと感じているが、アクセスを見るにつけ、それでもアビダンマに興味を持っている人はいないわけではないのだと感じている。そして、やはり縁があるのだろう、5chでやりあった仲間がまた集まってきている。実は私はこれが嬉しかったりする(笑)。
なんにせよ、仏教の知識的な話をするのは楽しい。瞑想は嫌いwだが、知識的な話はいつまでもしていられる。
さて師匠の話に戻るが、親離れも突然起こることがある。もしかしてその師匠は、一生の師匠ではないかも知れない。そこらへんは機根や機で、まったくわからない。
また、ダンマパダにもあるように、聖者ばかりを探していると、目の前に聖者がいても、わからない。「匙が食べ物の味を知ることがないように」。その「聖者」は、あなたが思う聖者でしょ?本当の聖者がどういうものか、あなたが勝手に決めた聖者でしょ?聖者がそれに付き合う謂れはなにもない。というか、慈悲があるから逆にそれを崩しにかかってくる。
そして、まあそんなことはないだろうが一応念のために書いておくと、私はこのブログは一応続けていくつもりではあるが、まったく師になる気はない。だから在家のままなのだ。
間近で出家を見ていると思うが、よくもまああんなことを何十年と平気で続けていけるものだと、空恐ろしさすら感じる。ま、これも私が今まで出家に対してしたことを思い起こすだけでも実感できることなんだけどね(笑)。
というわけで、あの時にはとてもそんな気にはなれなかったのだが、今は、ちょっとだけ、行ってもいいかなあ、という気になり始めてはいる。
一段落ついたら、皆で鍋パするかい?
俺は一切金出さないけどなww