さくらぎ瀞がわかる範囲の(スリランカの)テーラワーダの教え

スダンマ長老の弟子(在家)がつぶやいてみる。(只今休止中です)

焚書

 私は学者でもないし、なにしろ歴史が苦手だ。というか、そもそも勉強が苦手だ(笑)。

 

 ここで初めて告白するが、私はまともに勉強というものをしたことが無い。今になって大変後悔している。なにしろ、勉強の仕方がわからないのだ。

 

 だからどうするのかというと、授業で先生の言っていることを聞くだけ。予習も復習もしない。その結果、予習必須だった高校の数学から、脱落していく。当時は「給料もらってるんだから答え合わせばっかしてないで教えろよ」とか思っていた。そんなこと思ってるんだから、数学ができるようになるはずがない。以前書いた、「先生を尊敬しなければ教えが身につくはずがない」というのは、私の実体験からしてもよくわかる。(授業で一度も言ったことないことをテストに出すんじゃねーよ(怒)!とも思っていた(笑))

 

 実は本もあまり読まない。そんなこともよりも、動画、音楽、そちらの方だ。あれは本と違って、速くできない。最近は音程も変わらず倍速にできたりするが(あの技術は凄いなぁ!)、それでは意味が変わってしまう。必然そちらに時間が取られるので、本を読む時間が無い、という方が正確かも知れない。

 

 どうでも良い話だが、私は日本語を打つのが速い。ドイツにいる頃にチャットをしていて、平気で5人を相手にできた。それでも時間が余るので私ばかり話をしていたら、そのうち皆いなくなった。やはりどこでも私は嫌われ者らしい(笑)。

 

 そこで、たった一度だけ、私の速さを脅かした人がいた。自称女子高生でローマ字打ちだという。さすがにびびった。私は超少数派のかな打ちだ。だから英語キーボードだと大変困るのだが、打つ速さだけはローマ字打ちより確実に速いはずだ。にもかかわらず、だ。

 

 まあしかし最近は予測変換があるので、スマホで打つ方が確実に速い。私はあれが大変苦手なのだが、慣れている人は恐ろしい速さで打つことができる。私の速さなどまったく自慢にならなくなってしまった。時代の流れというのは、そういうものだ。しかし私としては、かなキーボードだけは無くなってしまっては大変困る…

 


 と、こんな話をしたのは、言い訳のためだ(笑)。

 

 細かいところが違う!と突っ込まれた時のための予防線だ。なにしろ本を調べて書いているわけでもなく、(めんどくさいので(汗))ネットで調べているわけでもない。

 

 ま、詐欺師だと思って、許してくれぃ。

 


 題名の通り、なんとスリランカでは焚書をする。というか、した。今はさすがにしていないだろう。よく知らないが。

 

 初めて聞いた時には、そりゃあびっくりした。「ナチか!?」と思った。貴重な書物を、何考えてるんだ、と。

 

 先週だったか、スリランカで三蔵が国宝に指定される式典が催された。私からすると、ナショナリズムとくっついている国教であるにも関わらず今までそうでなかった方が不思議でならないが、政治的なパワーバランスかも知れない。それこそまったくわからない。

 

 まあそうすることによって権威を高めよう、これが唯一の聖典である、ということにする、ということだろう、恐らく。

 

 そして、焚書もそれが理由だった。

 


 西洋の考えからすると、書物が残っていない=信頼性が乏しい、となる。実はインド文化圏では長い間、逆だった。書物の方が、信頼性に乏しかった。今は知らない。

 

 以前テレビで見たが、チベット仏教の小僧さんたちが、部屋でお経を読んでいる。師匠に呼ばれると師匠の前で、その日の分の暗記分を暗唱させられる。間違っていたりすると当然やり直される。そしてその日の分の暗記ができないと、延々といつまでもやらされる。泣いていた小僧さんもいた。

 

 これはテーラワーダのやり方と全く同じだ。師匠の前で、発音がおかしいとすぐに指摘が飛ぶ。在家の私などからすると、正直かなり怖い。

 

 テーラワーダの教義について、書物がどう、という人は、「ああ、暗記したことないんだな」とすぐにわかる。

 

 暗記してみればわかるが、あれは一文字でも違っているとすんげぇ気になる。テーラワーダをやる前に〇うか〇っかいでも法華経を多少暗記していたからよくわかる。それでも、伸ばす伸ばさないなどは、偈の唱え方のスタイルの関係で人によって違っていたりするが、それ以外は「あ、それ、違う」と瞬時にわかる。

 

 例えば、慈経なら皆さん暗記しているだろう。あれが、最初に「カラチーヤ」とか「カラデーヤ」とやられたら、一瞬で「違う」と誰でもわかる、とわかっていただけるだろう。

 

 この点、実は書いた方が信用ができない。スリランカでは長い間葉っぱに経典が書かれていて、それぞれの寺に奉納されているが、あれにもそれぞれ間違いがある。

 

 まあ当然だ。写本なのだから。筆記用具も今のようなものではないし書き写す時にはそれは慎重にやるだろうし、テーラワーダを信奉するお坊様がやるのだが、どうしても間違いは避けられない。

 日本でも、源氏物語は、今伝えられているものは何度目かの写本のものだ。まったくその通りかもしれないし、まったく違っているかも知れない。写本当時のスタイルも、私にはまったくわからない。

 

 その点、子供の頃から出家されたお坊様は、暗記を間違えない。いや、例えば宝経などは偈ごとループすることがある(笑)が、そんなもんだ。中の偈は決して間違えない。単語がお坊様によって違ったりするのは、あれは三蔵ではない。伝統的に祝福の時に用いる偈などだ。

 第何結集だったか、それまでは、例えばサーリプッタ尊者の弟子グループたちは相応部、アーナンダ尊者の弟子グループたちは長部経典、と、担当を分けて暗記して口伝で伝えた。中には三蔵法師もいたのかも知れないが、確実に責任を持ってその部を暗記して伝えるグループ、というのは決まっていた。

 

 何年か前に、スリランカでベストセラーになった、お坊様が書いた小説で、経典というのは最初はそんなに量があるものではなかったが、そこにデーワダッタ長老や異教徒、他の人たちが来るうちにどんどん増えていった、みたいな話があったそうだ。

 西洋だったら、もし後の時代に作ったものを昔のものに見せかけようとしたら、その昔の方のスタイルに厳密に合わせることを考えるだろうが、インド文化はそういうことは気にしない。なにしろ最初に書いたように、文献の信頼性より口伝の信頼性、だったからだ。

 そもそもおかしいとは思わないか。昔のものに見せかけようとしたら、それから時間はたっぷりあったのだから、昔のスタイルに誰かが改ざんするはずだ。少なくとも、そういうことはなされていない。

 

 ま、私個人的にも、お釈迦様のほんとうの直伝がどれだけあるのか、というと確かに三蔵すべてとは言い切れないと思っている。そもそも三蔵の中に、サーリプッタ尊者が説いたもの、アーナンダ尊者が説いたもの、在家が説いたものまである。あれはすでに注釈書と言っていいものだ。

 ではそれはお釈迦様の教えではない、と私が思うかというと、そうではない。自分で判断せず人に任せるという立場を取れば、代々の阿羅漢方が認められてきたもの、として信用するし、私自身で判断するとなれば、これは教えの通り、だとか、これは私は理解できないが、確かに教えに反しているとは思えない、と考える、ということだ。これは別に、書物を読むだけでも判断できることだ。

 


 中国というのは凄い国だ。あそこは書物も大事に扱うし、暗記も大事に扱う。今書いていて思ったが、チベット仏教テーラワーダのやり方だと、その時点で書物があると「暗記しなければ」という危機感が消えてしまうような気がする。しかし中国は違う。まああの国も焚書があったが。

 以前ラジオで中国史の専門家が言っていた。一通り講義が終わった後、「まあ(この時代は)こうなっています。資料にそう残っているからですが、相手の国の方のが残っているわけではありませんし、戦争に勝った方は好き勝手書きますからね。どうかはわかりませんけど」と。この人凄い!と素直に感動した。


 さて、注釈書にスリランカの話が多いのはなぜかというと、それはスリランカで書かれたものだからだ。古代シンハラ語で書かれていた。それをブッダゴーサ長老がパーリ語に訳すと、その古代シンハラ語のものは焚書された。なに考えてるんだ!


 そういうことをする理由は、結局は聖典を一つのみにするためだ。同じ人が書いたものであっても、言語が違えば微妙な違いが生じる。その違いによって、後々解釈が分かれることを恐れて、焚書した。だから書物は残っていないに決まっている。テーラワーダをやっているとそういう情熱を端々に感じるから信じるわけだが、まあ信仰心が無い人にそんなことを言ってもしょうがない。

 

 

 スリランカは、一度大乗仏教の国になったことがある。

fujisugatavihara.blogspot.com

 その後、既にスリランカから伝えられたテーラワーダをタイ、ミャンマーから逆輸入した。

 さて、ではスリランカがそういう、書物より暗記絶対の国なのかというと、またそれも違う。スリランカの歴史書は紀元前から、なんとも今も確か十年に一度、その続きが書かれている。

 


 テーラワーダというのは恐ろしく保守的だ。これはマハーカッサパ尊者の影響が色濃く残っていると言われている。現代のやり方と違うからと言って、テーラワーダ自体をほとんど変えようとはしない。一度小さいことを変えてしまうと、ダムの決壊がほんの小さなヒビから始まるように、なし崩し的に教えが改変されてしまう、と考えるからだ。

 まあそういう考え方がテーラワーダではあるので、それを理解しなかったらそりゃあ「テーラワーダは違う」と言いたくなる気持ちはわかる。

 

 もともと、このブログは、私のストレス(笑)から始まった。「日本でせっかくテーラワーダが広まってきたが、教えの内容はとんでもない方向に行きそうだ。一応それなりに伝統的なテーラワーダを学んできた観点から、何かの役に立つかもしれない」と思って書いているものだが、まあそれだって、その立場を信用してもらえなければ本当のテーラワーダかどうかもわからないし、日本の学者風に言えば本当「に」テーラワーダなのか、お釈迦様の直伝なのか、そもそもお釈迦様はいたのか、という話になる。いつも言うように、施設は無限。どうとでも言える。文句をつけようと思ったら、無限に言える。

 だから、暗記文化だったからどこかで改変されたかもしれない、とも言えるし、書物だからと言って完全に信用できるものでもない、とも言える。他の宗教では、本尊の由来の信頼性が重要とされたりするが、テーラワーダでは仏像など、誰が作ったものかわからない。実際、仏像は相当後にできたものだ。正直なところ、仏舎利だってほんとうかどうかわからない。だから仏隨念、仏の徳を念じる。冥想指導者によってはヴィジュアライゼーションすることもある。

 経典にも、仏を念じなさい、そうでなければ法を念じなさい、そうでなければ僧を念じなさい、とある。法が本当だと思えなければ、僧が本当だと思えなければ、仏を念じれば良いのだが、それを伝えている僧、僧が伝えている法を信じられなければ、そもそもそのおおもとの仏だって信じられないだろう。それをアビダンマでは疑vicikicchāというのだが、そもそもアビダンマはそうとう信がないと信じられない。


 というわけで、まったく疑うな、というわけでもないが、テーラワーダだって結局信仰が無いと始まらない。疑い出したら、きりがない。施設は無限だから。


 スマナサーラ長老は、そういう所は避けて、現代的に受け容れられやすいようにテーラワーダを語ってきた。ま、それでいいんじゃないですか。宗教家ではなく、宗教に懐疑的な学者が言っていることは信じて宗教家の言うことはまったく信じないのであれば、そもそもその人は宗教には向いていない。現代では、他に楽しいことはいくらでもある。私は、間違ったテーラワーダが流布されるのを恐れるだけであって、テーラワーダを布教する気は一切ない。どうせ理解してもらえない。

 

 

 私も初めてスガタ精舎に行った頃は、正直な所スダンマ長老がおっしゃることが胡散臭く感じた。確か最初の頃に聞いたのは、過去七仏のそれぞれの菩提樹の話だったと思う。

 

 ジャータカ、というのがあるだろう。物語になっているのは、注釈書の方だ。殆どが、ブラフマダッタ王の治世中での物語だ。三蔵ではないからそこまで言わなくていいかもしれないが、あれはさすがにどうだろう、と正直思う。ジャータカの最初の方にもあるが、過去七仏の時代でも、寿命がとんでもなく長い時代がある。お釈迦様を入れて過去四仏は、現代的に解釈すればこの地球での出来事のはずだ。しかも今よりもんのすげぇ前で、寿命も相当長い。普通に考えて、少なくとも今の人間の風貌とあまり変わらない生物であると思う。勿論、動物もよくしゃべりますよ。

 

 アビダンマでも、有分心はお釈迦様だけが見える智慧がある、そのくらいの智慧が無いと見えないもの、とされる。他にも、結構「お釈迦様だけが見える」というフレーズが出てくる。

 

 なぜ仏教学者は、そういう所に突っ込まないんだろう。私などは最初にそこを突っ込みたい、とうずうずしてしまうのだが。

 

 皆さん「心は物質の17倍の速さで」なんてフレーズを信じているようだが、あれは後でやる路での便宜上の数のことを指して言っているだけだ。そもそもあれこそ、論理上お釈迦様だけが見える有分心がわからないと確定的なことは言えないはずだ。

 

 

 それを私が弁解するとすると、ジャータカはそんなことは置いておいたとしても、教訓話として大変魅力的だ。子供用のアニメにもよくあるだろう、動物がしゃべるものは。

 パンチャタントラというサンスクリットで書かれた教訓話がある。YouTubeで調べれば、アニメになったものがたくさん出てくるほどのものだ。あれに対して、「そのパンチャタントラは、本当にインドで生まれたものなのか?昔から連綿と一文字も変わらず伝えられてきたものなのか?」と聞く人がいるだろうか。ま、そういう趣味の人はいるかも知れない。しかし大事なのは、その中に含まれている教訓の方だろう。

 

 さすがに私でも、三蔵もそうですよ、とまでは言わない。だから、テーラワーダの国では注釈書と三蔵はきっちりと分けている。完全に別格扱いだ。

 

 今回のスリランカの三蔵が編纂された時、最後の方にスダンマ長老も参加されたことがあるそうだが、それぞれのテーラワーダの国の文字(のパーリ語)がわかるお坊様がそれぞれ参加し、一人がシンハラ文字パーリ語を読み上げ、違うところがあったらそこで議論する、というやり方がとられたそうだ。だから完成に何年もかかっている。

 

 ま、そのもとの三蔵が間違っていますよ、というのは自由だ。そういう人に、テーラワーダを勧める気は毛頭無い。

 

 

 正直なところを言うと、そういう伝統を信じずに「私の言うことの方が正しいですよ」と言える神経を持つ人が、うらやましい。そういう人には、ほんとうに宗教は要らない、と心底思う。

 

 そもそも、日本の仏教学者は、相手国に対する文化的背景を理解しなさすぎる。そりゃその足りないオツムの中で構成したもので理解しようとすれば、間違った結論が出るに決まっている。自分が理解していないところに何かあるに違いない、と「信じ」なければ、そんなものは見えない。その足りないオツムを、テーラワーダは別に配慮しない。

 

 国際問題も、相手国の文化的背景に対する無理解から起きる。そりゃあそれを理解せずに自分の考えばかり押し付けていては、何も国際でなくても問題が起きる。

 

 では、相手のことばかりを考えていればいいのかというと、残念ながらそれも「バカ」だ。自分たちのことしか考えていない、「それはいかん!」と、ただ逆のことをしているだけだ。ここに書いたのは、そういうことだ。

sakuragi-theravada.hatenablog.jp

 

sakuragi-theravada.hatenablog.jp

 中道というのは、むちゃくちゃ難しい。最初は、針の穴にラクダを通すように感じられる。しかしそればかり意識していると、そのうち針の穴が大海に見えるようになるかもしれないし、もしかしたらラクダを通す方法がわかるようになるかもしれない。それを神通という。

 

 国際問題で中道というと、どちら側から見ても味方とも取れるが、時と場合によっては、どちらからも敵と取られる。智慧のある人は、答えを例えを知っていたとしても、実行できないどころか、発言すらできないこともある。発言することによって新しい問題を生むからだ。また、無論「中道」だからといって、双方の意見の折衷案がいつも答えだとはまったく限らない。

 

 またこの実行や発言というのは、タイミングがものすごく難しい。そこまで難しいことでなくても、テーラワーダのお坊様が星占いを気にするのはそういった意味でだ。タイミングがわからない、またはいつでもいいんだけど、という時に、暦、時を司る伝統のある(即ち力のある)ものを使うだけ。占いと違ったから悪い結果とか、そんなことは微塵も思っていない。

 

 

 以前私がクラシックマニアだと書いたが、日本での演奏会にはあまり行きたくなかった。なぜかというと、開演前に、マニアが皆「あの(評論家)先生はこう言っていた、いや、あの先生はこう言っていた」という話ばかりしていたからだ。いや、私だって評論家マニアだったこともあるから、「あの先生はこういう言い方をするが、それはね」という話なら喜んでする。しかし、そういう意味ではないだろう。

 演奏の話をするのに、なぜかなになに先生の話を持ち出してくる。「お前はどう思うんだ?」という話がしたいのだ。なになに先生がこう言っていた、なんてのは、読めば誰でもわかる。バカか。聞きたいのは、「なになに先生はこう言っていたが、私はこう思う」という話だ。

 

 

 ダンマパダにあるように、正しい道、中道を行く人はどちらからも敵と見られることがあるから、生きるのが難しい。どちらかに、誰かについている方が、誰かの意見に乗っかって生きている方が圧倒的に楽だ。

 
 そうでない、中道の道を行く覚悟を持つ者だけが、仏道を歩むがよい。

 

 「犀の角のようにただ独り歩め」とは、そういう意味だ。ツノが一人で勝手に歩くとは思えないけど。