さくらぎ瀞がわかる範囲の(スリランカの)テーラワーダの教え

スダンマ長老の弟子(在家)がつぶやいてみる。(只今休止中です)

dasadhammasuttaṃの読書感想文2

 引用はいつもの通り、富士スガタ精舎(現富士スガタ冥想センター)の日常読誦経典から。

 

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4.
kacci nu kho me attā sīlato na upavadatīti
カッチ ヌ コー メー アッター スィーラトー ナ ウパワダティーティ
戒律を守っているかと自分の心に問いかけているかと
pabbajitena abhiṇhaṃ paccavekkhitabbaṃ.
パッバジテーナ アビンハン パッチャウェッキタッバン
いつも出家者は観察すべき

 

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 最初の頃は、「うわ、戒律守れてねぇ!やべえ!」となっても良いかも知れない。この文章を見ても、「戒律は守らなきゃ」と思うかも知れない。

 

 しかし慣れてくると、どうということはなくなる。こうなるとなんとも戒律を守ることに対して良い刺激はなくなってくるわけで、ではどうすればいいのかというと、戒隨念をすれば良いわけだ。「私はこういう戒を守っています」と観察し、喜ぶこと。

 

 これも、信に結び付けて実践することが出来る。戒律については、当然お釈迦様もそうしていたわけだが、「この戒律を守ることによってお釈迦様も悟りを開かれた」とはちょっと思いにくいかも知れない。いや、私だけかもしれないが。

 

 なので、「この戒律を守ることによって悟りに近づくとお釈迦様はおっしゃった」と思うことで、信を高めることもできる。

 

 前者、「この実践をすることによってお釈迦様も悟りを開かれた」というのは、冥想の方がやりやすいだろう。別に、学術的に、経典に「お釈迦様はこの冥想をしました」と明記されていないから、とかなんとか考える必要はない。40の業処、ヴィパッサナー冥想は、全てこれに含んでしまって大丈夫だ。

 


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5.
kacci nu kho maṃ, anuvicca viññū sabrahmacārī
カッチ ヌ コー マン アヌウィッチャ ウィンニュー サ(ッ)ブラフマチャーリー
智慧ある修行仲間に、私は戒律を守っているかと
sīlato na upavadantīti
スィーラトー ナ ウパワダンティーティ
問いかけられると
pabbajitena abhiṇhaṃ paccavekkhitabbaṃ.
パッバジテーナ アビンハン パッチャウェッキタッバン
いつも出家者は観察すべき

 

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 智慧ある修行仲間に対して戒律を守っているかと常に監視すべき、などとは書いてない。まあそんな人は「智慧ある修行仲間」ではないから気にする必要もないのだが、なぜか皆戒律で人を攻撃するのは大好きだ。

 

 私も今日気付いたのだが、そもそも人に対する期待が大きすぎるのが問題なのではないだろうか。こういう宗教界隈にいると、その傾向はより強まる気がする。だから聖者などを探してしまうわけだが、では聖者然とした人が聖者ではないか、というと実はそうとも言い切れない。中途半端(といっても、とんでもないレベルではあるが)な人が聖者然としてしまうと信者が集まってしまうので嫌だ、となるが、中にはそれすら超えてしまう人もいる。信者が集まってきても何の問題もないほどの実力を持っている人が。

 

 だから、普通はいわゆる聖者のイメージでない人が良い、となるが、そうでない場合だってある。その人の特性で、教祖っぽくなってしまう人だっている。

 

 で、その、「人に対する期待が大きすぎる」のが何が問題なのかというと、それが自分に返ってきてしまうことが問題なのだ。これはお布施が作用、反作用というのとは違って(そういう意味もあるが、今は主眼はそこには置いていない)、結局自分の目は他人の目、つまり自分に対して評価が異常に厳しくなってしまうことが問題なのだ。

 

 そもそも、自分に対して評価が異常に厳しいために、人に対する期待も大きくなってしまう、という面もある。

 

 ではどうすればいいのかというと、この面からは、慈悲の冥想の、他人(ここでは他の生命というより、「人間」に限定した方が良いだろう)に対してすることが有効となる。

 

 慈悲の冥想、慈悲の心も、作用、反作用という面もあるが、ここでは自分の中の心の問題として見てみても、効果があることがわかる。

 

 その意味からも、「私が~」と「他人が~」というのは、両方大事だ、というわけだ。

 


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6.
sabbehi me piyehi manāpehi nānā bhāvo vinābhāvo'ti
サッベーヒ メー ピイェーヒ マナーペーヒ ナーナー バーウォー ウィナーバーウォーティ
私のすべての好きなもの、心を楽しませるものは
pabbajitena abhiṇhaṃ paccavekkhitabbaṃ.
パッバジテーナ アビンハン パッチャウェッキタッバン
変化するものであるといつも出家者は観察すべき

 

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 「無常」ということなのだろうが、私にはよくわからない。いや、「苦」か…?

 

 正直、「当り前じゃないの?」とか思っているのは、きっとそれを思い知らされるような事態に幸いにして直面していないからだろう。

 

 宗教なんかやってるとよくある話だが、人に対しては「こうしたらいいんじゃないの?」と偉そうに言うが、いざ自分がそういう目に遭ってみると何もできない、というのを目にする。

 

 では、他の偉そうに言ってた人が実際にそういう目に遭ったからどうだろう、と実は興味深く見ていたことが私にはあるのだが、なんとその人は偉そうに言っていたこと以上のことをしてしまった。つまり、問題が起こったら、その問題が起こる以前より良い状態にしてしまったのだ。「雨降って地固まる」とでもいうのだろうか。

 

 まあ、私の見る目がなかったといえばその通りなのだが、だから普段偉そうなことを言っている人だからと言って、いざ事態に直面した時に何もできない人だ、とは言い切れない。私から見て「偉そうなことを」と思っていただけで、実は本人からしたらそれでもかなり遠慮して言っていたのかも知れない。

 

 世の中には、そういう人もいる。

 


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7.
kammassako'mhi kammadāyādo kammayoni
カンマッサコーンヒ カンマダーヤードー カンマヨーニ
私が遺産としてもらったものは業である、
kammabandhu kammapaṭisaraṇo yaṃ kammaṃ karissāmi,
カンマバンドゥ カンマパティサラノー ヤン カンマン カリッサーミ
私は業によって生まれる、私の親戚は業である、
kalyāṇaṃ vā pāpakaṃ vā tassa dāyādo bhavissāmīti
カルヤーナン ワー パーパカン ワー タッサ ダーヤードー バウィッサーミーティ
私の加護は業である、善行為も悪行為も業として
pabbajitena abhiṇhaṃ paccavekkhitabbaṃ.
パッバジテーナ アビンハン パッチャウェッキタッバン
私の遺産になるといつも出家者は観察すべき

 

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 こればっかりは出家者でも在家者でも関係ない。在家者もその通り観察すべきだ。

 

 今仏道を実践できる、修行できるような恵まれた環境にあるのも、前世行った善行為の業の結果だということだ。

 

 業というとどうしても次の世以降のことだというイメージもあるかも知れないが、アビダンマ的に言っても、路心のうち速行の1番目に来るものは今世に結果が出る。現法受業diṭṭhadhamma-vedanīya kammaという。一番初めに来るほど「インパクトが強い」とも言う。

 

 あまりこういうことも言わない方が良いかも知れないが、結局は「勉強しました。頭が良くなりました」というのも、業だ。これこそdiṭṭhadhammavedanīya kammaだ。でないと、「勉強しました。頭が良くなるのは来世となります」なんてなってしまう。

 

 だから、「インパクトが強い」とか言っていても、とんでもないことではなく、普段我々が普通にやっているようなことだ。だから我々が普通に冥想実践などしていると、今世に結果が出てくる。善い方に慣れれば慣れるほど、どんどん力は強くなってくる。逆に方向を間違えれば、どんどん悪い方向に行ってしまう。ま、そこは今はいいですな。

 

 以前やかんの例えで言ったように、テーラワーダでは知らずにやった悪いことの方が悪い結果を得る。「これ悪いんじゃないの~?」とわかってやったほうが、結果はそこまで悪くはならない。

 

 正直、戒律を守らないなんて、これに比べたらまったく比べ物にならないくらい小さな話だ。なにかというと、正しい法をもって、人を攻撃すること。ハンドピストルで人を撃つのと、核兵器で人を撃つの、と考えていただければわかりやすいだろう。

 

 そういうわけで、残念ながらテーラワーダを知ってしまった人の方が、地獄に落ちやすい。そのことは頭に入れて、発言することをお勧めする。発言しなければ、意にあるだけだから、業としてはまだましだ。口(語)の行為として発してしまった結果他人がそれを真に受けた場合、その悪業は計り知れないものとなる。

 

 しかしこれは、「悪いことと知らずにやってしまった」ことについて言っているわけではない。間違っていたとわかったら、訂正すれば良いだけのことだ。知らずにやってしまったら悪業にはなるが、知らなかったのだからしょうがない。もしいつかそれに気付いたらすぐにやめれば良いだけで、その後良いことを発言すれば良い。何度も言うように、その悪業が消えるわけではないが、「うわ~、悪業だよー」と後悔するのは、悪行為。してしまった悪いことは、きれいさっぱり忘れれば良いのです。

 

 そういうこともあって、できれば最初から、意図は良くしておく必要がある。つまり、慈悲喜捨だ。慈悲喜捨を育てておけば、「悪いことと知らずにやってしま」う怖れが格段に減る。というか、だんだん「善いことと知らずにやってしまう」、それしかできない身体になる。残念ながら、善いことについては知らずにやるよりも知ってやる方が徳は上だが。

 


 「私は業によって生まれる」。業があるから、生まれる。宝経にあるように、阿羅漢は業をもう生まないから、二度と生まれない。善業も、悪業も。

 

 我々のやっている身口意の行為は、すべて業になる。アビダンマ的に言うとそうでないこともあるがまあ今はそんな厳密な話は置いといて、行為はすべて結果が出る。

 

 では、「結果」はすべて業か、というとこれまた「すべて」ではないからややこしい。まあここらへんに興味のある方はアビダンマをやってね、ということになる。

 


 「私の親戚は業である」。よくわからない。まあ色々、業だよね、ということだ(いい加減)。

 

 「結局助けてくれたり、問題が起こったりするのは親族でしょ」とかスダンマ長老に言われたような気がするが、忘れてしまった。ここは自信が無い。

 


 「私の加護は業である」。結局、自分を守ってくれるものも業だ、ということだ。

 

 これは、「そんな結果になったのはお前のせいだから自己責任だ」と取られてしまうところでもある。捨が行き過ぎてもこういうことになる。

 

 業によって、助けようとしてもどうにも助けられない、ということが実際には起こることがある。そういう時に、「これは業なのかもしれないなあ」と思うべきなのであって(業について完璧にわかるのは正自覚者だけだ)、良くない結果が現れている生命に対して「お前のせいだから自己責任だ」と言って助けないのは、本当は助けたくないだけなのに、かっこつけているだけだ。念のため言うが、だからといって「必ず助けなさい」と言っているわけでもない。

 


 「善行為も悪行為も業として私の遺産になる」。自分についてくる財産といえば、業だ。善業も悪業も。結果すべてが業ではないが、「善い」財産が多いに越したことはない。善行為をするということはつまり、その為の、投資と言ってもいいかも知れない。すぐには結果が出ないことも多い。

 


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8.
kathambhūtassa me rattiṃ divā vītipatantīti
カタンブータッサ メー ラッティン ディワー ウィーティパタンティーティ
私は一日をどのように過ごしているかと
pabbajitena abhiṇhaṃ paccavekkhitabbaṃ.
パッバジテーナ アビンハン パッチャウェッキタッバン
いつも出家者は観察すべき

 

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 スマナサーラ長老のヴィパッサナーのやり方だと、この部分を実践していると言える。他の冥想指導者の言い方でも、「今この場に気づく」と言うだろう。その場その場で気付いていると一日どう過ごしていたかなどすぐにわかるし、興味があれば過去を知る訓練にもなる。その一日を逆再生するかのように明確に思い出して行けば良い。それをどんどん伸ばせば、そのうち過去世にも行き着く。

 

 なぜ過去を見ることが実践に役に立つのかというと、業について、善因善果悪因悪果を確信するに非常に役に立つからだ。それを拡大すれば、教えに照らし合わせて、悟りに至るにはどうすれば良いのかもおぼろげながら見えてくる。

 

 あまり大きな声では言えないが、こういうことが見えてくると、未来もそれなりに見えてくる。「ああ、こういうことなら、こうなるね」というのは大体予想が付くようになってくる。

 

 しかし、すべてが見えるわけではない。恐らく、一番簡単なのは、自分について。その次に周りの生命について。それ以降は、格段に難しくなる、というか、恐らく不可能だろう。未来ばかりは、正自覚者でも、例えば菩薩の誓願、授記等の特別な強い力があるものなどを除けは、確実にすべて見ることが出来る、とはならないだろう、と勝手に思っている。どうせ、この私が思う「すべて」など、たかが知れているが。

 

 そういうわけで、過去世まで見なくとも、今世の自分の過去を見るだけでも、実践には役に立つ。役には立つが、そこでまた余分なことを考えてしまうと、変な方向へ行ってしまう。スマナサーラ長老が「思考するな」と言っているのは、こういう所のことだ。例えば過去を見て嫌な思い出などが見えたとしても、ただ「見えた」とするだけで、または「嫌な感じがしている」とするだけで、考えるな、ということだ。

 

 私は、「知る悲しみ」というのはあると思っている。なにも、全てを知る必要など、どこにもない。知るには、覚悟と、責任が必要だ。その土台ができる前に、知ってしまうのは悲劇だとすら思う。

 

 だから、在家はゆっくりでいいのだ、と思う。出家は、そんなこと師匠に言っても「はぁ?!」とか言われるだけだろうが。というか、そういうことがあるからちょっとスピード緩めたい、とか思っていても、それを許してくれない(笑)。

 

 「こいつには能力がある」と師匠(たち)に見つかったが最後、あなたはもうそれこそお釈迦様の掌の中にいる(←テーラワーダの中にある話ではありません)。