さくらぎ瀞がわかる範囲の(スリランカの)テーラワーダの教え

スダンマ長老の弟子(在家)がつぶやいてみる。(只今休止中です)

宝経の読書感想文5

 ここのところ、喜muditāの冥想が楽しい。

 

 私は基本、以前から出来る時は、慈悲の冥想をしている。歩いている時とか、交通機関に乗っている時とか。

 

 手元に無いので確認はできないが、確かスマナサーラ長老のアビダンマの本に、瞋性の人はムディターができない、とか書いてあった気がする。

 

 もうこのブログを読んでいる方にはバレている思うが、私はよくキレる(笑)。やたらとせっかちなので、瞋性か覚性の気は間違いなくあるだろう。

 

 で、以前にも書いた通り、怒りやすい人が「願い事がかなえられますように」なんてやってしまうと、その内容は「死ね」だ(笑)。

 

 だからだと思っていたが、まあここはわからない。

 

 以前名古屋で長老に自分が質問したものが、後で録音が出た。その時に、びっくりしたことがある。あまりに嬉しかったので、冗談ではないくらい一字一句覚えていたのだが、録音では一部言っていることが全然違ったのだ。

 

 私はこういうことは何度か体験している。テーラワーダ関連の本を読んでいても、一部間違えて覚えてしまっていたりする。いや、確かにそう書いてあるように見えたのだ。しかしその後、そのことを口に出した時には、逆に良い結果になったりする。

 

 そういう経験をしている関係上、「テーラワーダは宗教だ」と私は言うわけだが、まあそこはいいだろう。不思議な力は、ある。

 

 さて喜だが、そういうわけで私は今までほとんどやってこなかった。しかしやってみるとやっぱり不満に効力があるようで、「満足すること」ということがどういうことなのか、ほんとうに少しずつではあるが、ちょっとずつわかってきたような気がする。これに気づくときは、冥想をしている時ではないことが多い。

 

 今まではよく慈をやってきたので、やっと喜をできる段階に来たのかも知れない。これは個人個人によって違うのでまったく真に受けないでいただきたいのだが、もしかしたら、瞋の激しい人には参考になることかも知れない。

 

 

 テーラワーダをやっている人は、こういうものは好きではない方が多いかも知れないが、心の力ということで、大変参考になるだろうと思われる書籍を二つ紹介したい。

 

引き寄せの法則エスター・ヒックス、ジェリー・ヒックス著、吉田利子

 

「お金と引き寄せの法則エスター・ヒックス、ジェリー・ヒックス著、吉田利子

 

 いつも言うように、アビダンマッタサンガハを一通りやっていれば、一部どうかと思うところや、言葉の置き換えなどは問題ないだろう。

 

 しかし、結局の所、adhiṭṭhānaというのは、こういうことだ。その細かい作法的なことを知るには、大変参考になる本だと思う。

 

 他の引き寄せ関連の本は実はあまりよく知らないのだが、やはりこういうのも一番初めに始めた人は、力が違う。

 

 そのまま実践しても良いのかも知れないが、テーラワーダ的に置き換えてみると、非常にたくさんの発見があると思う。というか、私にはあった。

 

 

 さて、引用はいつも通り、富士スガタ精舎(現富士スガタ冥想センター)の日常読誦経典より。

 

引用引用引用引用引用引用引用引用引用

 

7.
ye suppayuttā manasā daḷhena
イェー スッパユッター マナサー ダルヘーナ
煩悩から離れて心を強くして
nikkāmino gotama sāsanamhi,
ニッカーミノー ゴータマ サーサナンヒ
佛道を歩む人は必ず涅槃に達します。
te pattipattā amataṃ vigayha
テー パッティパッター アマタン ウィガイハ
その弟子たちは、
laddhā mudā nibbutiṃ bhuñjamānā,
ラッダー ムダー ニッブティン ブンジャマーナー
いつでも涅槃を味わうことができます。
idampi saṅghe ratanaṃ paṇītaṃ
イダンピ サンゲー ラタナン パニータン
この理由で僧伽(サンガ)は宝です。
etena saccena suvatthi hotu.
エーテーナ サッチェーナ スワッティ ホートゥ
この真実によって幸福でありますように。

 

引用ここまで引用ここまで引用ここまで

 

 特に言うことも無い(汗)ので、パーリ語の発音について。

 

 ローマ字での発音については、西洋発音、いわゆる英語発音でほぼ問題ない。

 

 rかlか確認する時に私は巻き舌をしてrを発音するが、一応それでわかってもらえる。わかってもらえるが、シンハラ語の発音で巻き舌があるかどうかは私は知らない。パーリ語でもそこまでするかもわからない。英語でも聞いたことがないが、どうですか?クラシックでもラテン(国出身)系の歌手が英語の歌を歌う時やや巻き舌気味になる時はあったような気がするが、そういえばキリ・テ・カナワがそういう時があったかも知れない。まったく自信がない。

 

 独語は、古典的な歌唱スタイルを踏襲する場合、rはすべて巻き舌で歌う。今ではそこまでやらないかもしれないが、さすがにこれを聞いた時にはビビった。作詞者本人による、マック・ザ・ナイフMackie Messer(マッキー・メッサー)。メッキ・メッサーと聞こえるが、メッキ・メッセール(巻)とやっているのがよくわかるだろう。

 www.youtube.com

 

 ドイツでも南に行くとやや巻き舌気味になり、ラテンは言わずもがな。仏語はちょっと違うか。

 

 

 日常会話では、巻き舌は普通出てこず、本式の独語のrは喉のフラッターになる。どうしてもできない場合、うがいをして、そのまま前を向き、つまり水は「だー」するわけだが、それで練習しなさい、と語学学校でも言われる。正式な練習方法だ。

 

 しかし実は英語発音のrでも、巻き舌のrでも会話では何ら問題はない。あそこら辺の国の人はどうせ外国人慣れしている。「外国語訛りのrだな」と思われるだけだ。しかし若い世代では、やや英語のrに近寄っている気配はある。独語を聞きなれていない人からしたら全然違うように聞こえると思うけど。


 lは英語も独語も同じ、詳しくは知らないがヨーロッパ圏は共通と見て良いのではないだろうか。舌を歯の裏の、正確には歯の下というか、に付けて発音する。

 

 そして問題なのはここからだ。「daḷhena」。下点は、歯の裏に付ける。さっきのlよりも後ろ、ということだ。この区別が、まったくつかない。一応私も言われた通りには自分ではやっているつもりではあるが、人のを聞いても、自分のを聞いても、lなのかḷなのかは区別がつかない。

 

 以前テレビでやっていたが、アフリカのある国の民族は、緑色にやたらと詳しいという。我々からしたらただの緑にしか見えないが、微妙に青みがかっていたり色が薄かったりすると、現地では名前が違うという。そして当然のこと、皆そんなことはわかりきっているので、全員正解。農業とかなにか、生活習慣と関りがあるのだろう。

 

 日本では、これまた間違っているかも知れないが、その昔色と言えば白と赤、あとは黒か?そのほかは「あお」だった。貴族は違うかも知れないが、一般的には「あお」。だからいまだに「青信号」という。あれも外国に行くと、びみょーに困る事柄の一つだ。緑も「あおあおと」茂る。

 

 自分が区別がつかないものに対しては人間無関心なものなので、例えばオタクが熱く、人から見たら細かい違いを語っていると、まったくわからないからバカにしたりする。まあ私も人のことは言えず、私が全く分からない分野で細かい違いについて話していると「そんな区別がついて、なんの役に立つんだろう?」なんて思ってしまうが、細部に神は宿るという。もう少し、細かいことの分かる人を社会が大切にしたら、良い世の中になると思うんだけどなあ。

 


 パーリ語に戻ろう。例えば、前にsakyamunīでも言ったが、brahma、この場合は「ッブラ(ッ)フマ」みたいな発音になる。そして、この「ブラ」は一音節だ。日本語の「ぶ・ら」とはリズムが違う。

 

 こういう発音になる前で、促音化、小さい「っ」が起こる。

 

 すまん、恐らくこういう発音規則にもすべて名前が付いていると思うのだが、私はそこまで知らない…。日本語でも調べれば恐らく出てくるだろう。

 


 スガタ精舎(現スガタ冥想センター)には外国の人がよく来るので興味があって訊いてみるのだが、外国人に日本語を教える時、ラ行はrで教えるそうだ。別にそれでこちらも聞き取りに困ることはほぼないが、正確には日本のラ行の発音はrとlの中間だ。だから日本人は英語のrとlの区別に苦労する。普通どちらもラ行にしか聞こえない。

 

 これは英語のsとshにも通じる話で、これまた日本語のサ行はその中間だ。「し」だけshiに近いが、そういえばタ行もやっかいだったっけ。

 

 また、日本語では子音と母音の区別というのはまずしない。その関係で、子音だけで発音すべきところもよく母音が入ってしまったりして苦労したりする。

 

 で、この子音がパーリ語は日本語より多い。母音も多いが、そこはまあいいだろう。因みにシンハラ語は子音も母音もパーリ語より多い。だから、日本人からすると「この区別、必要?」と思っていても、シンハラ人にはすぐにわかる。みんな優しいから黙ってるけど(笑)。

 

 日本人だって、外国人の日本語に対して「その発音はね」とは普通指摘しないだろう。

 

 いや、そういえば昔、アメリカ人の日本語に対して、いちいちつっかかっていた人がいた!さすがに縁を切った、というかその後会うことはなかったが。

 


 そして問題の、h。h自体は普通の発音でいいのだが、問題は「laddhā」。そう、「saddhā」もこれだ。

 

 英語のものだと、「dの直後にhを発音する」なんて書いてあるものもあると思う。別にそれで構わないわけだが、正式には、喉から息とともに発音する。だからカタカナで書くとすると、「ダハ」(一音節)となる。その上、下点が付いたりなんかしてな。ḍhaとか。

 

 なにが問題かというと、sattāとsatthāでは、そもそも単語として全然別のものだ。だから、暗記するには、先にそこまできちんと区別しておかないと、後々苦しむことになる。

 

 慈経などは、カタカナ発音でもいいから親しんでもらったほうが超ありがたいが、もうすこし本格的に暗記を始めようと思う場合、是非ともここはわかっておいていただけると、ほんとうに後で苦しむことがなくなる。

 

 スガタ精舎では以前スニータさんが一時出家なさったが、読経の時にほんとうにいちいちお坊様に発音を指摘されていた。出家は、在家には優しい(それでも厳しい…)が、出家にはほんとうに厳しい。

 


引用引用引用引用引用引用引用引用引用

 

8.
yathindakhīlo paṭhaviṃ sito siyā
ヤティンダキーロー パタウィン スィトー スィヤー
大地に立てた石の柱は
catubbhi vātebhi asampakampiyo,
チャトゥッビ ワーテービ アサンパカンピヨー
四方から吹く風で揺れない、
tathūpamaṃ sappurisaṃ vadāmi,
タトゥーパマン サップリサン ワダーミ
聖なる真理を観た有徳者たちである僧伽は
yo ariyasaccāni avecca passati,
ヨー アリヤサッチャーニ アウェッチャ パッサティ
そのように例えられます。
idampi saṅghe ratanaṃ paṇītaṃ
イダンピ サンゲー ラタナン パニータン
この理由で僧伽は宝です。
etena saccena suvatthi hotu.
エーテーナ サッチェーナ スワッティ ホートゥ
この真実によって幸福でありますように。

 

引用ここまで引用ここまで引用ここまで

 

 indakhīlaというのは、もう今は全く知らないが、国語の教科書で「柱頭がなんとか」とかなかっただろうか。ギリシア建築のあの柱みたいな、まあ全然違うかも知れない(汗)が、あんなものを想像していただけたら良いだろう。あそこまで高いものではないかも知れない。

 

 まあそのくらい「でんっ」としたものなのだから、風くらいで揺れるわけがない。そのように、いかなる世間法に晒されようとも揺れない、というわけですな。