さくらぎ瀞がわかる範囲の(スリランカの)テーラワーダの教え

スダンマ長老の弟子(在家)がつぶやいてみる。(只今休止中です)

信saddhāについて4

 いや、申し訳ない、私が間違っていたかもしれない。

 

 私は今まで、お坊様方が「テーラワーダは宗教ではない」となぜあそこまで強調されるのかがよくわかっていなかった。


 実は私も、以前テーラワーダのあるお寺で、そこは熱心な信者さんたちが集まっているのだが、「新興宗教みたいだ…」と一抹の不安を覚えたことがある、というか、有体に言ってしまうと、怖かった。

 

 冥想会でも、嬉しそうにスマナサーラ長老の話をする人と話をしていて、そのことについては私も嬉しいのだが、しかし実践が進んでいくとやはりそういう人たちとしか話をする機会が減ってくるからか、ちょっと周りからどう見られているのかなあ、という視点が欠落しているかなあ、と思ったことがある。

 

sakuragi-theravada.hatenablog.jp

 私は以前こういう宗教にいたこともあって、申し訳ないが新興宗教の人がどういう考えをしてどういう問題が起こるのか、というのはなんとなく知っている。

 

 信仰心が行き過ぎると、周りが見えなくなる。だからこんな大胆な行動も出来る人になるのだろう。そういう人が出るのは、テーラワーダが浸透し始めた今の日本においては、仕方がないことなのかもしれない。

 

 我々が「テーラワーダは宗教ではない」と思っていても、知らない人から見たらほんとうにただの怪しい一宗教に過ぎない。我々がまったく知らない宗教の人が、「私の宗教は宗教ではありません」といって近づいてきたら、怪しいとは思わないだろうか。

 

 内部にはぜんぜん宗教的な話をして構わないのだが、外部に対して重要なのは、宗教的な臭いは一切出さずに、慈悲の行動をすること、見本を見せること、等であって、宗教を前面に出して縁を付けることではない、と思う。

 

 中には縁のある、テーラワーダ的に言えば「徳の高い」人もいるかも知れないが、どうなのだろう、そういった比率などはまったくわからない。

 


 というわけで、あまり宗教宗教言わない方がいいのかなあ、と大変反省した。申し訳ない。

 

 しかしそんなこと言いながらやはりこのブログはそういう色なのでそのまま続けていこうかなあとは思っているが、ちょっとそういう視点もある、ということをわかっていただけたら幸いです。

 

 よろしくお願いします。