さくらぎ瀞がわかる範囲の(スリランカの)テーラワーダの教え

スダンマ長老の弟子(在家)がつぶやいてみる。(只今休止中です)

なぜか托卵

 「ふわっ」というより、「ぼやっ」だ。

 

 自分で何が言いたいのかもわからない。ま、いつものことだけどね(苦笑)。

 

 というわけで、大好評、更に先鋭化したぼやっと回。

 


 托卵。他の種類の生き物の巣に自分の卵を置いて、その他の種類の生き物に自分の子を育てさせることだ。しかももとの卵は捨てる。

 

 最初に聞いた時には「なんてことするんだ。ひどいなあ」と思っていた。

 

 しかし、種類にもよるのだろうが、考えてみれば、その生き物は托卵することしかできないのだ。どちらが正しい、とか考えていた自分には、なんだかわからなくなってしまった。

 


 音楽では、実は自分では「これ以上何をしていいのかわからない」という所まで一度行った。これまでお世話になった先生方はさぞ喜んで下さるだろうと思った。

 

 結果、疎まれた。自分がノーテンキ過ぎたのも大いに理由があろうが、もうなんだか、やる気をなくしてしまった。

 


 お布施についてレーワタ長老に訊いたら、ただ「action, reaction、作用、反作用」とだけお答えになった。

 

 言語の専門家らしく、難しい英語を使うお坊様だった。お話になる内容も、当時の私にはよくわからなかった。

 

 しかし今ならほんの少しだけわかる。cāgānussatiの対象にはならないのかも知れないが、結局人は自分が与えたものに対応してなにかが与えられるのだ、と(そうでなければ、業によって受けられるものもある)。

 

 物もお金も勿論素晴らしいが、これはそれだけには限らない。

 


 私は知識的な話が得意だし、アビダンマが好きだが、それだけだ。法話や、悩み相談なんて明らかに向いていない。

 

 政治家には、なにを言っているのかわからなかったり、他にも失言を繰り返したりするがなぜか人を引っ張っていくことには長けている人がいたりする。私などまったくああいうタイプではない。恐らく、そうやって人の前に立つ徳は無い。

 

 

 人はなぜか、自分の苦手な所で勝負しようとする。そうすると、問題が起こる。苦手な所ももちろんやらなくてはならないこともあるだろうが、こんなブログを読んでいる人はもういい大人だろう、もうそういうところはきっぱり諦めて、得意な所を伸ばすべきだと思う。

 

 人を攻撃する人は、その、人の苦手な所を突いてくる。だから余計に苦手な所で勝負したがってしまうのかも知れないが、そういう時は「うるせー!」で済ませればいい。

 


 このブログを始めてから、先ほどの与える、という話が少しわかった。以前にも書いたように、なぜか自分で答えを書いているのだ。


 私は今、今までは考えたこともないような、縁も所縁もないような分野に手を出そうとしている。成功するかどうかはまったくわからない。

 

 まだほんとうに勉強を始めただけ、という段階だが、恐らく生まれて初めてだろう、生きている気がしている。

 


 寺にいると子供もたくさん来る。そこでよくわかるのだが、大人との相性というものがある。私の得意な子供と、他の人が得意な子供はまったく違うのだ。苦手も。

 

 人にはそれぞれ特有の言語というものがある。ブルガリア語しかわからない人にタガログ語で話しても、意味がない。

 

 世の中にはお互いの母国語がさっぱりわからないのに、その母国語同士で話して通じている人たちもいる。ああいう人たちは、心で会話している。恐らく事務的な会話は相当困難だろうが。


 私は、人が得意なところを自分で発見していく過程を見るのが大好きだ。未だに自分の得意分野がよくわかっていないということがその理由かもしれないが、逆に苦手な所で強がっているのを見ているのは辛い。

 

 日本は大概皆を全分野で同じレベルに達せさせることが重視されてきた。それでいい部分もある。しかしそこからは漏れてしまう人もいる。得意が突出しすぎていたり、苦手分野が壊滅的だったり。

 

 仏道を実践していると、次第にそこが良い方向に行きだす。ということは、そうでないと逆の方向に行ってしまう。これは仏道に限らず、結局善行為、ということなのだろう。

 

 スリランカのお坊様も、在家も、それまで私はまったく縁が無かったから、まずはただ見ただけでびっくりした。見た目からして、もう個性が豊か過ぎなのだ。テーラワーダの業、生まれ、という考えがあるからだろう。逆に言えば、そういう所には、日本的な「一定のレベル」という考えが今は合うのかも知れない。そこら辺はわからない。


 さて与える、というのは、やりがいだったり、アイディアだったり、さわやかさだったり美しさだったり、もうなんでもあり得る。良いものを与えれば良いものが、悪いものを与えれば悪いものが返ってくる。

 

 人にはほんとうにいろんな人がいる。世の中には、その人を相手にただしゃべるだけで、その相手はなにもしゃべっていないのに、問題が解決してしまう、という人までいる。その人は、一般に言えば何も与えていないかも知れないが、大変素晴らしいものを与えている。

 

 しかしこれは自分の特性、相手の特性に合わせないと、うまくはまらない。まったくしゃべれない人は、このような人を相手にしても良いことにはならないだろう。場合によっては、他の場面では良いものであるはずが、悪いものになってしまう可能性だって無いことは無い。

 

 とにかく「その場その場に合わせた智慧」が必要なのだ。そしてこれは、もう実践しか無い。「そういうものを目指して、修行するぞ」と思って経験を積むしか方法が無い。

 

 しかし一番大事なのは、その与えるものを、どういう気持ちで投げるのか、ということだ。