さくらぎ瀞がわかる範囲の(スリランカの)テーラワーダの教え

スダンマ長老の弟子(在家)がつぶやいてみる。(只今休止中です)

人間は弱いもんだ

 例えば何年も五戒を守っているとする。ところが今日、破ってしまった。「あぁー」となるのが普通だろう。

 しかし、テーラワーダではそういう考え方はしない。それまで何年も守ってたんだろ?すげぇじゃん。また明日からやったら、何年かはまた大丈夫だろう、と。

 

 お経の唱え方にしても、何か作法が間違ってたとか、唱え方が違うとか発音がおかしいとか、そういうことだから罰が当たるとか、とかいうことはない。

 もちろん正しい方が良い。お経を知っているからと言ってお坊様より先には出ない方が良いし、カタカナ発音でも親しむのは良いが、やはりパーリ語として発音は正確な方が良い。しかしそれは、「その方が良いよね」という話で、良いことは、善行為。上手いことは、善行為。うまくいったら、「善行為だ!」と喜べば良い。

 

 じゃあ、五戒をずーっと守り通すことに意味がないのかと言えば、それはそういうことでもない。sacca kiriya真実の言葉。「私はずーっと五戒を守り通しています。この真実の力によって~」というやつだ。やはりやることが難しいことほど力を持つ。また、残念ながらこれは悪い方にも使えるが、力があるだけ、悪行為としての力も大きくなる。

 sacca kiriya。どこかで聞いたことがあるだろう。etena saccena suvatthi hotu.またはetena saccavajjena~、あれだ。仏教は、経典の内容が真実であると強い口調で言う、これが真実であることが間違いないのだから、お経を唱えることによって幸せになるのである。これが、お経を唱えると力になる証拠だ。当たり前だが、経典の内容を理解していれば理解しているほど、力が強くなる。その入り口は、意味が分からなくても唱えてみる、だ。


 テーラワーダにも懺悔(さんげ)がある。これは、残念ながら悪行為を贖罪することではない。教義上、悪行為は悪行為、業として結果が出る。ただし、良いことばかりしていると、小さい悪行為の結果は隠れて出にくくなることはある。

 ではテーラワーダの懺悔とはなんなのか。富士スガタ精舎の日常読誦経典にこうある。「知らないで起こした過ちを懺悔いたします」。自分が知らないでしてしまった、悪行為にはならないような、例えば知らない作法についてとか、そういうことでもし間違っていたとしたら、そこはどうかご容赦ください、ということであって、「私はこういう悪いことをしました。どうかお赦しください」と言ったら罪がなくなる、ということでは、残念ながら、ない。

 しかしでは「私はこういう悪いことをしました。どうかお赦しください」と思ったからといって意味がないかというと、またそれも違う。なぜなら、そう言うことによって、「もうこういう悪いことはしないんだ!」という決意になるからだ。

 

 とにかくテーラワーダは心を重視する。身口意のなかで最も力がある行為は、意、心の行為だ。戒によって身口の行為を清らかにするが、表面上と言えば表面上だ。これができていなければ話にはならないのだが、だんだんそれだけでは満足できず、次なるステージに行きたくなってくる。


 日本でお布施、というととにかく寺にお金を出せばお布施になる、というイメージがあるのでお坊様もあまり強く言わない、というかほとんど言わないのだが、実はdāna, sīla, bhāvanāという順番がある。実はsīla戒の前に、dānaお布施、がある。

 考えてみればわかると思うが、dānaは別に戒を守らなくてもできる。実際他の宗教の人もたくさんしている。その人たちが皆五戒を守っているのか、というとそうではないのがわかるだろう。個人的には、お布施もしないのに戒を守って、なんか意味あるんだろうか、くらいには思う。

 しかしこのお布施、日本ではイメージが定着してしまっていることもあって、問題が多い。まず、強制徴収。これはお布施ではない。お布施は、自分の意志によってするものであって、「皆がしているから」といってするものではない。

 宗教をやっているとよくあるのだが、「お布施しないと悪いことが起こる」。テーラワーダでは、それはあり得ない。

 いや、経典の中でも、餓鬼が、人間でいた時に良いことをすることができる環境にあったのにしなかったからこういう境遇に落ちた、と話すことはあるが、あれは別に脅しではない。だから人間でいるうちに、良い環境にあるうちに善いことしときなさいよ、というアドバイスだ。

 なので、例えば皆でお布施しよう、という話になった時、誰かがお布施をしなかったからと言って「あいつ、なんなんだ」と思ったら、せっかくの善行為の話なのに、悪行為になってしまう。残念ながら日本ではまだこういうことが多いので、お坊様もあまりお布施の話には踏み込めなかった。「あいつに出させよう」なんてなったら、もうこれは立派な盗みだ。恐喝、ってやつだ。

 もうひとつ、このお布施、いかなる生命に与えても「お布施」。ここも誤解のあるところだと思う。

fujisugatavihara.blogspot.com

別に、相手がテーラワーダでなくても、宗教者でなくても、お布施はお布施。

sakuragi-theravada.hatenablog.jp

こちらも、参考までに。

 

 そして、善いことをしたら、回向しよう。「私はこんな善いことをしました。さあ皆喜んでください!この善行為によって得た功徳を、皆さんに与えます」。

 テーラワーダでは、特に特定の餓鬼に対して効果がある、と説くが、別に他の生命に対してやって悪いことではなく、むしろ推奨される。伝統的には、出家は読経の後に先輩出家に対し懺悔、回向する。全ての生命に対して回向して、何が悪いことがあるのか。

 で、この、回向。なんと、お釈迦様の命令だ。

 これは大変珍しい。五戒だって、「五戒を守ると善いことがありますよ」くらいなのに、回向は「しなさい」。

 当然と言えば当然かもしれない。普通には見えない生命に対してするものなのだから、そんな見えない生命なんて、我々在家には通常見えない。

 実は出家の戒律の中で、見えない生命に対して配慮している個所はいくつかある。こんなことを強調して、せっかくここまで日本に定着したテーラワーダが「やっぱり宗教染みてんじゃん」なんてなったら台無しなのでお坊様は言わないだろうが、事実だ。


 人間なんだから、間違える。間違えたら、間違いを認め、もうそういうことはしない、と決めて、でもまた間違える。それでいいじゃないか。自分も間違える、人も間違える。間違えなくなったら「すごいじゃん!」、また間違えたら「またがんばればいいよ」。間違えたことを咎めるのではなく、間違えなかったことを称賛する。昔のことは、もういいじゃん。

 

 ただし、dāna, sīla, bhāvanāという順番は、変えられない。dānaお布施もせずに、sīla五戒も守らずに、bhāvanā冥想をしていると、問題が起こる。ヴィパッサナー冥想は、宗教色を排したことによって広めることに成功した。しかし、中には「問題があるのではないか」と言い出す人も現れている。理由は、これだ。実際お釈迦様も、在家にはdāna, sīla(五戒)は勧めるが、bhāvanāは特に勧めていない。